情報社会と法曹界
ネット社会における弁護士のあり方
牧野二郎(弁護士)、林紘一郎(GLOCOM特別研究員・慶應義塾大学教授)
林 このシリーズは「21世紀の法制度」ということで、20世紀までの制度と違った新しい制度をどう整備していけば良いのかという、やや野心的なことをやっています。1回目は問題全体を鳥瞰する話をして、前回は企業法務の視点から日本総研の大谷和子さんにお話しいただきました。今回は弁護士の牧野先生をお迎えして、法律実務家で、しかも弁護士としてクライアントのご要望に応えておられるという観点から、いろいろお聞きしたいと思います。
インターネット弁護士協議会とは
林 まず、「インターネット弁護士協議会(ILC:Internet Lawyers Conference)」は何年にお立ち上げになったのですか。
牧野 96年9月30日に設立しました。オンライン・チャットの中で決議をあげたという大変奇妙な団体です。もともとはプロの法律家同士ということではなく、「インターネット弁護士協議会」という名前にはそぐわない形なのですが、弁護士とそうでない市民などが共同で走り出したというのが率直なところで、最初は20〜30人ぐらいで、その中に弁護士が10人いるかいないかというところでした。
林 きっかけはどういうことだったのですか。
牧野 弁護士のホームページが大変少なかったというのが当時の僕らの思いで、何人かの弁護士とメールで接触し始めたのです。ただ、何人かの先生はたいへん警戒されていましたが。当時のホームページの状況は情報が少ない、みんな同じようなことばかり書いている。弁護士に頼むときの手数料はこれぐらい、裁判所はここにある、とかそんなことしか書かないわけで、あまり役に立たないわけです。そんなページは一つあれば十分でしょう。僕らは、そんなことを真似して書くのではなくて、自分たちの意見なり考え方なり、それぞれの分野で法律相談を行ったり、いろいろなことをしたほうがいいんじゃないかということで、ベースになるインフラのようなものは共有できないか、ということを考えながら、とにかく連絡し合おう、弁護士のスキルを少し上げようということが、最初の思いだったんですね。
すごく面白かったのは「連絡をとり合おう、相手はみんなプロだからな」と思ってメールを打ち始めたわけですが、ホームページを見てメールを打ちますから、弁護士にあたるとは限らないのです。そうすると、法学部の学生のほうが、いいホームページを作っているわけですよ。要するに、プロと自称している人たちがいかにこの面で力がないかというのを、嫌というほど知らされたわけです。
林 ホームページのコンテンツが、ですか。
牧野 そうです。いろいろな条文だとか、法律情報だとか、ニュースだとかを集めてきたり、いろいろな意見、たとえばCookie1の法律論とか。弁護士でCookieの法律論なんかやっている人は1人もいなかったわけですけれども、法学部の学生が先進的にやっていました。そのとき、学生だと分からないホームページもあったものですから、どんどんメールを打っていたわけですよ。そしたら学生のみなさんから、「僕も入っていいんですか」という、うれしいメールをもらいました。
林 それで初めて分かったんですね。
牧野 そうなんです。それで、これはバッジを付けている、付けていないの問題じゃないと。バッジというものは、ひとつの試験を通りましたというドライバーズライセンスを示すものであって、それ以降の法的なセンスとか、知識とか、知恵とか、経験とかいうものを何も担保しない。ましてや、研究だとか学問的なレベルなどというのはまったく担保しない。そうなると、もう少し違う目で見なければいけないと気が付いて。バッジを持って仕事をさせていただいている以上、僕らはもっと研鑚しないといけない。すると、市民のみなさんと弁護士がしょっちゅう切磋琢磨するようなことが必要になってくるだろうと。そこで、法律家と市民を結ぶ"スーパーハイウェイ"を造りたいと思ったわけです。
林 すると、インターネットは手段だったわけですね。それは今も変わらないわけですか。
牧野 そうですね。
林 これからは、第2段階に入らなければならないとおっしゃっているようですが、どのへんのことでしょうか。
牧野 一つは、インターネットという、手段のオープンな側面、便利な側面というものを、まだまだ上手に使うことができていないということです。私たちが様々な行動を起こし、社会にインパクトを与えていくときというのは、やはり強い信頼関係がないと成り立っていかないのではないかという問題です。作業をするとかアクティブに動くということと、情報を交換し、みんなが利用できるようにするというのは、少し仕組みが違うのだろうということです。
どんどん広げるという意味では、そういうアナウンスをすることが必要ですが、動くということになると、人の顔が分かる、気持ちが分かるといった、一種のコミュニティというか人脈というか、そういうものをあちこちに結んでいかなければいけないのでしょう。インターネットの結びつきを超えて、人と人との結びつきをもっと強固に作っていくという段階に入っているのではないか。そこにもっていきたいという感じですね。
林 なるほど。すると今までのところは、インターネット的にいうと、LANがいっぱいあってそれがつながっているという協議会ではなくて、協議会がまずできて、そこに入りたい人は集まれとなったわけで、そのメンバー間の共有とかバックグラウンドの共有とか、そういうものはなかったんですね。
牧野 なかったですね。いまILCはバックグラウンドをもたない一般的なメーリングリストになってしまっていますね。仕組みがあまり十分に作れていなかったので、情報交流をするというのを、LANがあって、そのLAN同士を結ぶという発想ではなかった。ただ困ったことに、法律家の中でLAN、即ち小さなバックグラウンドのある単位というのを考えると、非常にセクト的になるんですね。私たちの世界には派閥というものがありますから、人脈イコール組織イコール派閥ということであって、その派閥というのは自民党の派閥と基本的にまったく同じものです。そういう派閥の論理の中で、ひとつの派閥の中に○○会というのがあって、完全なヒエラルキーができあがっている。そこから抜けると、職人組合からパージされたような格好になるわけですね。本業では生活できないというようなことになります。地方に行くとだいぶ薄らいでいますが、東京などは典型的です。
林 派閥の大もとは何ですか。出身大学とか、だれだれの弟子ということですか。
牧野 長い歴史の中で自然発生的に形成されてきたので、必ずしもはっきりとは言えませんが、かなり政治的なところがあるかなという気がしていますね。要するに、自民党の右系、真ん中系、民主党というか、ややリベラル系、社民党系、もう少し左翼系、というように右から左へずらーっと並ぶ、そんな感じです。
林 それは政治に例えていえば、健全ではないのですか。
牧野 僕は、極めて不健全なギルド社会というふうに思います。そういう構造というのが、経済組織にできることは、閉鎖的で独占的になると思います。まさに、上からの利権を下に流し込む利権構造になっていますね。では、具体的に僕らにとっての利権は何かということになると、事件ですね。とくに破産管財の大型事件、公害事件も含めて、新聞紙上を毎日にぎわすような大型事件というのは、弁護士としては、ぜひやりたいものですよね。そういうものは大型事務所が吸い取って、下にずっと流していく。すると、実動部隊は100人ぐらいになるということがあり得るわけですね。
だから、大きな事件が、あるいは大量の事件が組織としての弁護士を要請し、求めているということになると、ある一つの大きな派閥や組織力がどうしても必要になってくるということがあります。何が言いたいかというと、そこの派閥に属した弁護士はみんな上を向いて口を開けるようになる。田中金権内閣のときにそうであったように、金を持ってくるところにみんな向くわけですね。国民を見て政治をするのではなく、田中角栄を見て政治をしていた。また、僕らは「暴力団の弁護士は後向き弁護をする」ということを言います。つまり、裁判長に向かって弁論しないで、傍聴席の組長に向かって弁論するという構造なんです。自分に金をくれる人、仕事をくれる人のところを見る。すると、ギルド社会の弁護士は何を見るかというと、ボスを見るわけです。自分の組織の中でのボスを見るわけです。その次の派閥の中にもボスがいるわけですね。そして、猿山の猿のごとく、ボスに上がっていくと、最後は日弁連の副会長、会長へと上がっていって勲章がもらえるというような、非常に強固なヒエラルキーができあがっている。
林 なるほど。
牧野 すると、市民のほうを向いて仕事をする人が非常に少なくなるわけです。だから僕は、インターネットと接触したときに衝撃的でしたね。
林 衝撃はすごいと思いますね。インターネットは手段ですが、その手段の特性によって、組織のあり方や社会構造まで変えてしまうインパクトがあるわけですよね。今だったら、そんなこと知っていると言われるかもしれませんが、その頃そうお感じになったとすれば、それはすごいことだと思います。組織学者や経営学者になれたかもしれませんね(笑)。
牧野 僕は正直言って、派閥に入りきれなかったんです。当初、小さな派閥にいましたが、窮屈ですぐに飛び出してしまいましたから。すると、実質的には弁護士会から干されてしまうわけですよね。派閥に入っていれば、有名企業の顧問弁護士にならないかという誘いもあるわけですが、「派閥に入らなければそういう仕事がもらえないんだったら、いらない」という話をいつもしていました。昔から貧乏弁護士でやってきたというわけです(笑)。 そのとき、派閥がなぜ生きていくか、派閥がなぜそういう論理を持つかということは非常によく見えましたし、それは弁護士の宣伝禁止ということと裏腹でした。「市民から事件をもらうな、上からもらえ」ということです。事件は上から来ますから、宣伝する必要はないというのが論理必然でした。「市民の側を向いて市民とともに歩む」、「市民の中で鍛えれられる」という発想はまったくなかったのです。
林 今のご指摘を伺っていると、私などは大変に表層的すぎたなと思うわけです。アメリカで若干でも生活したので、日本の法律事務所というものは、規模が小さかったり、極端な場合は個人営業だったりして専門に特化する時間も組織力もないので、法人化して大きくならなければだめではないかというふうに単純に考えていたわけです。もちろん、その要素はないわけではありませんが、牧野さんはそれだけではだめだというので、もっと他のことも考えていらしたわけですね。
牧野 我々が大きくなることが目的なのではなく、どれだけ本当に幸せを運び込んでこられるかということが問題なのだと思います。とくに、ボスの顔を見て仕事をしていて、なぜ幸せになるのか。ふんぞり返って仕事をしていて何が幸せなのか。私のような人間は自分の馬鹿さ加減をよく知って、市民のなかで徹底的に鍛えられなければいけない。その頃から、「弁護士も医者もインフラだな」と思い始めているんです。要するに、弁護士というのは、お寺のお坊さんでもいいのですが、市民が困ったときに「とりあえず訊いてみようか」という存在でなければならないのではないか。医者も同じだろうと。僕らが経営的にものを考えること自体が間違いだなというふうに考えたのです。僕らは、ある意味では、お布施の世界で生きていかなければならない。要するに、どうしたら儲かるかというレベルではなく、必要なときに必要な人の手元にいるというものでなくてはいけない。我々は市民の共有財産でなければならない。市民がいかに良い弁護士をもつか、あるいは医者をもつかというのは、社会インフラが整っているかどうかという問題なんだろうと。すると、私たち弁護士が弁護士であるのではなく、社会のトラブル解消の薬みたいなものとして存在しなければならないのではないだろうか。どういう弁護士を求め、どういう弁護士になるのかというのは、やはり市民が決めることであるし、それは弁護士が儲かるか儲からないかの世界ではない。弁護士なんて儲からなくてもいい、生計が成り立って、それ以上の喜びが感じられれば、弁護士になりたい人はたくさんいるだろう。そういうふうに、弁護士制度を根本から変えないと話にならないというのが僕の当時の思いで、現在でも続いているところです。たいへん生意気なことを申し上げてしまって・・・
林 その基調を生かしながら、今度はもう少し高度化された人的要素を加味していきたいということなんですね。
牧野 そうですね。弁護士が巨大化したロー・ファームみたいなものをもちますと、派閥の強化になりますし、ろくなことではないと僕は思っているんです。現在、宮大工とまでは言えないけれど、非常に高度な職人芸を持った弁護士たちがたくさんいます。たとえば刀を1本作るのに、製鉄から始まって刀鍛冶が一つの製造工程を分担して刀を作っていく。そういうような、何かを専門にする弁護士というのがずっと揃っていって、ひとつのネットワークにつながっていって、それが依頼者のトラブルに関して総合的に判断できるというような、広くオープンなネットワークを作りたいのです。そういうものが、日本中、あらゆるところに存在してくるようになれば、これは非常にハッピーなことではないかと僕は思います。
林 その時の商標というかブランドは、「インターネット弁護士協議会」なんですか。
牧野 全然違います。おそらく独自のバックボーンをもった、地方的な要素をもった、「サイバー・ロー・ファーム」と呼ぶようなものでしょう。いろいろなファームがありますが、そのファームはアメリカ的な大人数、大所帯のものではなく、刀鍛冶のような横のネットワークが基準になるファームなのではないか。そういう共同作業がしたいと思っています。
これを考えた理由には二つありましてね。一つはACLU(American Civil Liberties Union)というアメリカの自由人権協会が、CDA(Communications Decency Act of 1996:通信品位法)が出たときに、ホームページの中でなんと原告団を募集したということがありました。「寄付はいくらでもいい、メールでとにかく申し込め」と。そのときに猛烈なショックを受けました。憲法訴訟をやるときに原告になりましょうということを、いまだかつて日本人が感じたことがあっただろうか。「一人一人がその国の主人公であるから、許されないことに対しては一人一人が自分の名をもって闘いに挑む」という、そのスタイルは素晴らしいと思いました。日本はいつも組合だとか政党だとか、何か利益集団というものが徒党を組んで戦争をしかけるみたいな、自らが自らの良心と名前において闘うということがあまりに少なかったのではないか。そのときに、「あなたが原告になれます」というのを見て、一つ目が覚めた。そういう意味での司法というのは、市民が作るものなのだということを教えてくれたのです。もう一つが、弁護士をつなぐという点です。日本の弁護士は非常に勤勉である、一生懸命勉強する。実をいうと、いろんなところに、いろんな専門の人たちがいるんですね。たとえば少年事件にどっぷり浸かって、少年事件ばかり扱っている人もいるわけです。僕も、本当は刑事事件の弁護をやりたかったんですが、刑事事件の弁護ばかりやっていて非常に生活が厳しい弁護士もいるわけですよね。日本では、そういう本当にやりたい仕事をやっている人たちというのが、きちっと生活できるように保障されているかというと、全くされていないわけですね。だから、僕らはどうしてもビジネスロイヤーにならないと飯が食えないみたいなところがあって。僕なんかよりも数段優れた弁護士が山ほどいるのに、なぜ光が当たらないんだろうかと。話を聞けばものすごく含蓄のある先生方でも、「そんな刑事事件の本を書いても売れやしない」と、出版社は相手にしてくれない。そうすると、極端な話、一生、日の目をみないわけですよね。だから、こんなすごい職人が―研究者ではなく職人だと僕は思うのですが―全然尊重されていない社会になってしまっているのではないか。その意味で、なぜ、これがうまくつながらないかなという、もう一つの思いがありました。
林 それをつなげれば、効果は100倍とかになるんですか。
牧野 名医のところにみんながつながるかというと、これは絶対に無理だと思うんですよ。僕がすごく幸せだなと思ったのは、ある大学病院に行ったときに総合受付というのがあったんです。そこに婦長さんとおぼしき、年輩のご婦人が座っておられるわけです。「実は僕、こういうことで来たんだけれども。こういう状態でこうなんだけど」という話をすると、一生懸命聞いた上で、「じゃあまず、ここと、ここと、ここへ行ってみてごらんなさい。今、順番を書くから」と言ってくれるわけです。
林 それは何科と何科ということですか。
牧野 そうです。病院に行ったときに「どちらに行きますか。外科に行きますか、放射線科に行きますか、皮膚科に行きますか」と聞かれますよね。たとえば、手の皮膚にボツボツができたので、皮膚科の先生のところに行って一生懸命に薬を塗ったけれども、ちっとも治らない。すると、実は皮膚ではなくて、歯に埋め込んだ金具のイオン化現象で、体にたまったイオンが手に出ていた。だから歯の詰め物を陶器に替えてイオンを抜けばよかったのに、一生懸命に強い薬を次から次へと塗って肌が荒れてくることになる。専門職の弁護士や医者がいるところに素人が何も知らずに行くと、医者も「うちが何かしてあげなければいけない」という気持ちになって、そこで大きな間違いが起きてしまう。やはり受付にいたご婦人のように、専門職ではないかもしれないが、大体全体像をつかんだ非常に経験豊かな婦長さんが依頼者の話を聞いて、「そうね、あなたはこっちの先生か、あるいはこっちの先生がいいかもしれない。それとここと、三つ回ってだめだったらもう一度いらっしゃい」とか言う。あるいは、「僕はすごくイライラしてどうしようもないんだけど、どうしたらいいんだ」って、非常に老齢の弁護士に聞くと「おまえの議論は精神科に行け」とか、「おまえの議論は隣の人との喧嘩だから、こっちの弁護士に行け」とか、そういうような総合的判断をする人と専門家とが、しっかり結ばれた仕組みが必要だろうと思う。受付のようなところで、老齢の経験豊かな人たちが物事を判断する、その判断を尊重して専門家が検討する。そういう信頼に基づいた、きちっとしたネットワークを作り上げていかないといけないだろう。どんどん高度化し、専門化していく現在では、すごく難しい問題になってくるんじゃないかと思います。
林 いまお聞きしていて、牧野さんのおっしゃることはほとんど全部、これからの情報産業がどうなるかということに関係あるような気がします。日本では、主治医というか、ずっと付き合っていく、家庭がお世話になっているお医者さんというのはありませんよね。これが今のようなことに関係しているかと思います。ですから全体的にいうと、昔風の、地域に区切られたコミュニティというのが、移動性が高まってほとんど壊れてしまった。しかし、新しいコミュニティというか、名前は別にして、何らかの長いつきあいのある組織、組合、ネットワーク、そういうものが必要だということは、かなり分かっているわけですね。そういうときに、情報を扱う職業の人、あるいはそれに値するような知識をもっている人が中心的存在になるという仕組みを作るには、どうしたらいいかというのが大問題だという指摘をなさったのだとすれば、それはすごいことだと思います。司法制度の見直し論議と結びつけて、いまの議論を発展させていきたいと思いますが、まずは、いま、司法の現場では実際に何が行われてきているかを簡単にご紹介いただけますか。
司法制度改革、まずは判例の公開を
牧野 一つは、最低限のインフラとして必要だとして、弁護士を含めた法曹人口を急速に増やそうと言っています。制度改革としては、裁判所の機構が制度疲労しているので、制度を少し変えていかなくてはいけない。ここのところ新聞紙上をにぎわせていますが、陪審制、参与制など、大胆に制度を変えていこうかという動きも出てきています。細かく言うと、各裁判官の研修制度も変えながら、専門的な事件にも対応できるように専門部制度も見直して、きちっとしたものを作っていこうとか、いくつかの制度改革を同時に進めているというのが基本的なところです。
林 素人から見て、裁判が透明に見えるとか、部分的に参加できるとか、もっと身近な存在になるなどといった、いろいろな視点がありますが、そのへんはいかがですか。
牧野 まず、何よりも最初に行わなければならないのは、判例の公開だと思っています。情報公開を徹底して行うということが最も重要です。情報公開の中で、初めていろいろな問題が議論されていくことになると思います。いずれにしても、プライバシーの問題もあるので、公開のときに名前を落とすなどは当然ですが、国民が司法権をみずからコントロールする前提として、裁判における情報公開をまず確保しなければなりません。一番最初に変えなければならないのです。
ある事件を担当して類似事件の判決を確認したいというとき、判例集に載っていない類似事件が山ほどあります。それを調べに行くと、利害関係を求められます。
林 そうですよね。しかし、この前最高裁の方に聞いたら、「それほど難しいことではない」と言っていましたが。
牧野 そうですかね。しかし、鬼頭判事補の事件2のようなことが起きたわけですよね。要するに、過去の事件の判例等を調べようとすると、申請者に対し、「身分関係は何ですか、利害関係は何ですか」と必ず聞きます。そこで、訳の分からないことを言って見に行こうというのは当然のことなんです。私は現実に、大阪で担当した事件で、過去の判決が見られませんでした。インターネットに関連する事件でしたが、類似事件というのはたくさん出ていますから、検察庁や裁判所に出向いて話をして、「どうしても類似事件の判例を見たい」と言ったところ、「あなたはどういう関係があるんですか。それを立証しなければ絶対に見せません」ということで、結局見られませんでした。現場での運営というのは、少なくとも一切見せないという構造があるわけです。これはいまでも変わっていません。
もう一つ、すごく面白いのは、私たちの事務所には『判例タイムス』とか『判例時報』が必ずありますが、私たちが見られない判例がそこに載っています。そして、裁判官が解説を書いているわけです。「裁判官は、情報を漏らす権利があるわけ?」と思ってしまいます。そこには、明らかに出版社と裁判所の利権構造があるわけです。要するに、「この事件は面白そうだから、私が裁判官として解説するから取り上げなさい」ということで、お金も動くわけです。それを独占しているということです。本来でしたら独占禁止法にあたるのではないでしょうか(笑)。
林 私なんかは、経済至上主義といって批判されてますから、裁判も経済学で切ったらいいんじゃないかと思いますが。ところで、それは、以前からそうだったんですか。
牧野 私の知っている限りでは、私が弁護士になった約20年前にはすでに何十年も続いている仕組みになっていました。裁判官が、それを喜びとして解説を書いているわけです。
林 たとえば、有斐閣の「判例100選」なんていう、学生がすべからく判例を勉強するための本がありますが、100のうちいくつかは、“判例集未登載”になっています。ということは、一般の人は原本を見ることができない状態で、解説だけが掲載されているということになります。学生は、解説が正しいということを前提に勉強するわけですね。これは、学者としては学生に一番教えてはいけないことなんですね。アダム・スミスがこう言ったというのなら、本当かどうかを原典をあたって確認し、まずは疑ってみることを教えているからです。それなのに、一番肝心な判例集が出るも出ないも、かなりの自由裁量になっている。これはおかしいですよね。
牧野 おそらく、インターネットに関連する最初の判決というのは、1996年にあったベッコウアメ事件3 だったと思います。これが判例集に載ったのはかなり後でした。『判例時報』にはいまだに載っていません。遅れて判例集に載ったわけですが、そのときには日本中で類似事件が起きていて、私たちの中では「そんなのはもう前例があるよ」という話になっていました。それは、どういう闘いであったのか、何が問題だったのかを議論しなければならないのに、原典がないまま進んでいたわけです。見せてほしいと言っても見せてくれないんです。
日本の司法というのは、非公開原則、まさに「由らしむべし、知らしむべからず」で、知らせないわけです。裁判所内部にも、検察庁にもデータベースは完成しています。裁判所の中のデータベースは、部の部長職以上しか見られない。要するに、新任判事には見せないわけです。とくに、行政事件に関してはパーフェクトな判例データベースを持っています。すべて税金で作っているのですが、いったいそれは何なんでしょうか。要するに、官が民に負けてはいけないということらしいです。自分たちのために国民の税金でパーフェクトなデータベースを作っておきながら国民には絶対に見せないという、そういう姿勢は根本から直さなければならないと思います。
林 私も日々反省しているんですが、昔なら、私が貴重な本をもっている、あるいはあまり読める人がいないドイツ語の本を読んで偉そうに講釈をたれると、あの人は偉い先生だということになるんです。しかしいまや、ネット上にそういう情報がどんどん流れるものですから、学生のほうがよく知っているんですね。いま、私がやろうとしている商標とか、パブリシティの権利というホットなイシューは、私が講義で話すときには、「先生、それは違います」なんていう学生が出てきたりします。事実のベースでは、私はもう相手にされないというか、学生のほうが強いわけです。そうすると、こちらができることは、長く生きているので、「これはこういう変遷でここまできた」とか、「ここで出た判決は非常にユニークな判決ですが、これは流れをこちらに変えようというインパクトをもっている」などという位置づけ、つまり、その意味を語れないと役割がないわけです。ですから、裁判官は、事実は誰にでもあげてしまって、もっと堂々と意味を語ればいいと思います。
牧野 そうですね。彼らには自信がないのではないでしょうか。彼らは、権力と利権だけにしがみついているから、それだけに、オープンにするという姿勢が出てこないのだと思います。ある意味では、アメリカやその他の国の裁判官と比べて、日本の裁判官というのは非常に閉鎖的だし、暗いですね。社会から遮断されることに生きがいを感じている人種という気がします。
林 学者も似たところがありますね(笑)。これは日本社会全体論でもありますね。つまり、たこツボになっている。教師になった人は最初から教師で、ビジネスマンも一つの会社に入るとずっとその会社にいて、その中で、相対的に力をもったら社長になるわけですね。その象徴が某首相ですね。この中から選ぶしかないというところで選んでしまうと、どうもグローバルスタンダードからみると、まったく適していない人を選んでしまったということです。そのあたりは、アメリカのほうが少なくとも流動性がありますし、批判にもさらされます。とくに、アメリカの判例では、たとえば著作権関係の判例を読んでいるとインターネットの解説から始まったりして、その解説がまたよくできているんですよね。あれは著作権がないから、翻訳してそのまま本にしてもいいと思うくらいです。どうしてこんなことが書けるのかとびっくりします。
牧野 ゴアとブッシュの最高裁でのアーギュメントのとき、私はちょうどワシントンにいたんですが、夕方になったら、テレビでそれをすべて放送するんです。そのとき、裁判官が非常に積極的なのが印象的でした。ブッシュの代理人が一生懸命説明しているとき、それを遮って「I don't think so」(その条文の解釈は違う)というふうにやるわけです。日本の裁判官は、最初から最後まで一言も口をききませんからね。それですぐに閉廷して、ポーンと判決を出すわけです。国民が納得するために、ディスカッションをしていくという姿勢がまったくありません。その裏返しが、全部話を聞いてから密室に閉じこもって「さてどうするか・・・」という感じで判決文を書き、それには文句は言わせない。「文句があるんだったら上に行け」という感じですね。国民が納得することなど全く考えていない。
いま、司法改革ということで国民が関与できる制度を作るとか、弁護士の数を増やすとか、裁判官の数を増やすとか、いろいろなことに取り組んでいますが、本質が違うのではないかと思って、私は非常にクールに見ています。というのは、国民が参加するシステムを作ったとしても、いまの裁判システムがそのまま残れば、国民は何をやっているのかまったくわからない。昔、陪審制度が日本にもありましたが、それが自然淘汰されて休眠状態に入ってしまった。何をしているのかが分かり、何を議論されているのかが分かり、私たちの判断が国を支えていくんだということが分からない限りは、またダメになるでしょう。要するに、いま行っている司法改革は、目くらましをしているに過ぎません。本質のところには何もさわろうとしていない。つまり、構造改革を一切しようとしていないのです。
林 私は、牧野さんに半分は賛成ですが、半分は反対です。賛成というのは、おっしゃることはもっともな点がたくさんあるということです。しかし、一方では、教育の分野もどうにもならなくなっているわけです。私もたまたま教育現場にいるわけですが、たとえば、小さい頃からディスカッションする躾と仕組みを作らなければなりませんね。牧野説も、それが伴っていれば、いずれは相互作用で改善に向かうということはあるのではないでしょうか。
牧野 それはありますね。その意味で、どこから手をつけるかということも難しいことだと思うのですが、教育の閉鎖性をどう開放していくかが問題です。教育現場に社会の外部の人間は入れないということでしたが、数年前からようやく民間からパソコンをもらったり、インターネットの指導者を招聘してもいいという指針がでたので、開放の方向に動き始めました。これは、もっと加速しなければなりません。おそらく、学校の先生がどういう役割を果たすのか、裁判官がどういう役割を果たすのかを、もっと明確にしていかなければならないと思います。「証人はうそつきだから信用しない」と裁判官はいつも言うわけです。学校の先生方も、とくに小学校や中学校では、子どもたちをどう育てるかではなく、どう飼育するかというようなものが根本思想にあった気がします。そこから作り変えていかなければならないと思います。そういう意味では、いまの司法改革は小手先で話をしているだけという気がします。
そうだとすると、私は、国民投票でもすればいいと思っています。「何のために裁判をやっているのか、司法制度は本当に必要なのか」。たとえば、ヨーロッパでいうと、弁護士の数はたいして多くはありません。イタリアでも5万人か6万人程度です。その人数は、たしかに少ないといわれていることも事実ですが、その数で十分まわっているということも事実です。アメリカのように、50万人、60万人という規模ではないわけです。果たして、人数が増えたから本当にいいのかというと、日本の風土からいえば、そのような人数は絶対に必要ではないと思います。国民が、どういうスタイルの司法制度、裁判を望んでいるかということを、もっと真剣に議論すべきだと思います。
私の考える裁判の究極は、ご隠居なんです。熊さんと八っつぁんがケンカしたときに、長屋のご隠居が「ちょっと待て、ここへ座れ」といって出てきて、「この長屋では・・」という感じでやるわけです。実は、これは私が言い出したことではないんです。以前、アフリカの国立大学法学部に本がないから送ってほしいという呼びかけがあり、インターネットのシステムを構築してデータベースを送って議論していたことがありました。そのときに、現地の方が、「わが国はいい法律制度は作りたいが、法律家をあまりつくりたくない」と言うんです。 理由を聞いたところ、「我々には部族がある。各部族には習わしがあり、部族長がきちっとコントロールしている。したがって、新しい形での別の判断というものは必要ないんだ」と言うのです。部族長がきちっとした裁定を下すという、そのシステムを尊重しながら、ある種の裁判制度をどう構築するかということを悩んでいるんだそうです。
ADR(Alternative Dispute Resolution:調停、仲裁など裁判手続き以外の方法による紛争解決手段)の話に結びついていくんですが、既存のトラブル解消システムは、どこでも持っていると思うんです。それを、もっとオープンにし、適正に運用できるようにしていったその積み重ねが、日本の司法として存在すべきではないでしょうか。いつも、上のほうから「こんなのいいんじゃないか」ということで作ってきていますが、私たちは自分たちの生活に自信をもって、自分たちの生活の中での紛争解決制度を、もっとふくらませる必要があるのではないかという気がしています。
林 それは正しいと思います。いい例かどうかわかりませんが、法的知識のレベルを測る試験制度があるようで、その教科書の売り込みのダイレクトメールが私のところにきました。その中に、試験の設問例が2問出ていて、試しにやってみたところ2問とも正解でした。解説を読んでみると、なぜそれ以外の答が不正解かということが細かく書いてあります。私の場合、これが正解に違いないということは分かりますが、解説できない。一般レベルでいくと、日本の法学部はそれでいいのではないかと思うんです。幸い、ロースクールをつくるということですから、一般的な紛争解決などは、五つの選択肢があったら、常識的に考えてこれしかないというように分かればいいと思います。そういうことで解決できるところはたくさんあると思います。
私の父は、農芸化学、いまでいう農学部のバイオテクノロジーを専門としていましたが、地方労働委員会の委員もしていました。私はそのとき法学部の学生でしたから、「こんなの引き受けてもいいのか」と聞かれたので、「引き受けるとしても、不当労働行為のようなことを引き受けたら大変なことになるぞ」と言いました。しかし、そこはよく考えていて、そういう難しい問題は弁護士出身の方が担当するんだそうです。父は、賃金紛争の斡旋とか調停を担当するんだそうです。それは十分ありうるわけで、社会的に活動している人には常識は備わっているわけですから、その上で何かを提案すればいいだけで、最終的に拘束力があるものではありませんから。そのように、紛争にもいろいろなレベルを想定し、さきほどおっしゃったADRを考えると、そういうことが必要な気がします。アメリカですと、すぐに法廷に行ってしまって白黒をつけますが。
牧野 日本には、職場でも大学でも、地域でも、様々な紛争処理機構があるような気がします。その手続きが、日本的な村八分のようなことになってはいけないと思います。システムが適正に運用されるように制度化されていて、基本的人権が守られるような智恵をそこにもたらしていけば、もっといいシステムになるのではないでしょうか。
林 セクシャル・ハラスメントは、そういう場の方がいいのかもしれませんね。私は、あれを負の情報財と言っています。どちら側から見るかによって、価値がずいぶん変わるんです。物財みたいな裁判制度では、ちょっと解けないのではないかと思っています。
牧野 言ってみれば、非常にプライベートな問題、金額の小さいものを、国家権力を使って処理させるということ自体が、異質な感じを受けます。生活環境の中で出てきた問題は、生活環境の中で処理するというのが基本なのではないかと思います。
林 牧野弁護士の言は、弁護士としては異質ですね。弁護士の中には、アンビュランス・チェーサーみたいな、事件があると急に元気が出るという人がたくさんいるわけですから。牧野さんは、事件はないほうがいいと言っているに等しいですね。
社会インフラとしての弁護士
牧野 おそらく、弁護士というのは医者と同じです。一番悪い医者は、患者に向かって「なんで早く来なかったんだ。もう手遅れだ」と言って診療を始めます。そうすると、失敗しても何をしても患者の責任になります。弁護士も、初めの判断をすごく嫌います。判例がないと話ができない。ケンカになってドジがあって、「バカだな、なんでドジやったんだ」という場面にならないと出て行かないわけです。いままではそうでした。そういう状況では、弁護士が、「お前が悪い」といっても何の解決にもなりません。必要なのは、市民の中で鍛えられて、市民の隣にいて「どうしたらいいんだ」と聞かれたときに、法律と現実を組み合わせながら話ができることです。もちろん間違えることもあるので、そこで切磋琢磨していく。スタンスの違い、経験と智恵の違いで、ビジネスなり、生活している人とタグマッチを組んでいく、共同関係を作っていくということが基本だと思います。私たちは、ビジネスとしてとらえた場合には、トラブルが起きてくれないと飯が食えないわけです。しかし、そうではなく、さきほど申し上げたように、私たちは「インフラ」なんだと考えること。私たちは、社会に必要なものであって、それでいいんだということになると、この社会が、どれだけの弁護士を養っていくつもりがあるのかということを、むしろ聞きたいと思います。「あなたはどういう弁護士を育てたいですか、育てたければそういう弁護士を育てる仕組みを作りましょう」ということです。繰り返しになりますが、基本的には医者と同じだと思っています。予防が進めば医者は少なくていい。予防法学が進めば弁護士もいらないのです。
林 話題を少し変えますが、現実に相談をお受けになっている案件の中では、何が一番多いのでしょうか。
牧野 いまは著作権でしょうか。要するに、ソフトウェアとか本も含めた表現物の問題がメインになっています。私の仕事として位置づけていますが、インターネットのトラブルの未然解消のための様々な法的な措置、たとえば労働規約の見直しの問題とか、電子メールをやり取りするときの注意点とかセキュリティに対する考え方とか、そういう点で多くの相談を受けています。
林 企業の中には、メールの中身をチェックして、昔でいう私用電話のようなものがあれば処分するとか、いろいろなケースがあるようですが。
牧野 意外に思われるんですが、私は、公私の混同を極力避けようというスタンスです。プライバシーを言う限りは、プライバシーのテリトリーを不可侵に近いくらいに守らなければなりませんが、パブリックの部分、つまり事業としてやっている部分については、プライベートのものをもち込まないというスタンスをとっていて、基本的には、クリーンでオープンにしておかなければならないという考えです。ですから、会社のあるラインを越えて中に入った場合には、メールにしても、電話にしても、合意の上で、オープンに取扱う。秘密扱いをしないからといって、なんら異議を唱えるべきではないと思います。もちろん、そういうシステムになるという前提の合意は絶対に必要です。不意打ちは避けなければなりません。スーパーマーケットでは、店員が中の見える透明のバッグをもっていて、外からみると屈辱的な気もしてしまいますが、店の商品はもって出ていないということを明示するためにそういう規則を作っていて、従業員がそれに合意しているということであればよいでしょう。
メールについても、中と外とのやり取りで、個人情報、機密情報を添付ファイルで外に出してしまうのは犯罪であるということははっきりしているわけですが、それをチェックできないというシステムは、淘汰される企業を意味しているわけです。それは、きちっとコントロールしなければならないし、そういう情報はもち出せないようにしなければなりません。その意味では、企業の中で、ルールを作るということになれば、そのルールを守らなければなりません。そのときに、「プライバシーの問題だ」という人が実に多い。ほとんどのマスコミ人がそうです。要するに「そうは言ってもプライバシーの問題でしょ、メールを見られるのは気分よくないよ」というわけです。私は、いつも新聞記者と「あなたの書いた原稿を、上司はチェックしないで記事に載せるんですか、そんなバカなことを御社はしますか」「絶対しません」「あなたが取材から帰ってきたときに、取材先から回答がきたという場合、それを上司は見てはいけないんですか。すっぱ抜きの情報だから、それをすぐに抜いて記事にするというのは犯罪なんですか」「そんなことはありません」「メールのやり取りをしているのは仕事のためであって、飲み会に行く、彼女を誘うということのためではないでしょう。それはここではやってはいけないことではないのですか」「それはそうだ」というようなやり取りをしています。要するに、会社では公私の区別はきちんとしましょう。その代わり一歩外に出たら、そこには公衆電話があって、そこでは自由に電話をかけてもいいし、メールを送るならダイヤルアップでもいいから、自分のパソコンでやりなさいというルールを作ればいいのです。
そこで一つだけ問題になるのが、労働行為との関係です。労働組合の組合活動を尊重しなければならないということです。労働時間中でも労働基本権を守る必要が出てきますから、それは労働組合と会社企業者との間で、労働関係に関する協定をしなければなりません。しかし、同時に労働基本権を尊重して、組合活動や基本権行使に干渉してはなりません。この点も明確に合意しておくことが必要です。ある意味では、それは暗号をかけたり、認証をかけるという方法が考えられますが、それらのメールには、触れない、開けない。また、それを読むことについては就業時間内でもOKという合意をきちっとしておかなければなりません。労働者の側から言うと、仕事をさぼっても、いくら私用電話をしていても文句を言われる筋合いはないという労働ゴロみたいな発想は捨てなければならないと思います。
林 きわめて理路整然としたご説明ですね。法律的に見ればそうだろうと思いますが、経済的に見ると、果たして、監督管理にどれくらいの時間とお金をかけるべきなのかということです。かりにその内容が、今晩の飲み会はどこにしようかというようなものならば、いままで電話でもやってきたことですから、そんなことまで管理するとなると費用はべらぼうにかかるわけです。管理費用対効果という面で考えると、あまり厳密でなくてもいいのではないでしょうか。世の中というのは、常識というか、兼ね合いがどこかで決まるんでしょうね。
牧野 そうですね。かなりアソビというか、ゆるい部分があるように思うんですね。ただ、原則はプライベートとパブリックの切り分けだろうと思います。パブリックなところで雑談をするとか飲み会の相談をするというのは、ハッピーなことだとは思いますが、それがいつ犯罪あるいは怠業に結びつくかわからないということからすると、チェックできるルールだけは、みんなでもっているというようにしておいたほうがいいですね。最近、相談を受けて大変困るのが就業中のネットトレーディングです。仕事中にネットトレーディングをやっているわけです。株価が動いていますから、売り買いも非常に激しくなり、1日に何度も売り買いするわけですね。本業で稼ぐよりも、ネットトレーディングで稼ぐ方が大事になってしまうんですよ。収入のバランスも逆になったりして(笑)。そうすると、仕事なんてどうでもよくなって、ネットトレーディングの画面を1日中眺めているという人もでてきます。上司に怒られると「株価の変動を研究していて、我が社がどうすべきかを検討している」などと答えるわけで、そうなってくると手に負えないんですね。
林 自分の会社の株価も眺めてるんじゃないですか。
牧野 そういう意味でも、ルールを作ろうということになってくるんです。実は、そうした行為をすべて監視するソフトウェアがあるんです。要するに、会社のLANの中で、どこに接続しているか、どんなメールを送っているかなどを全部チェックできるソフトウェアです。これは大変きわどいなという感じがします。
林 きわどいというのは、本来守るべきプライバシーにまで踏み込んでいってしまう、という危険性があるということでしょうか。
牧野 そうですね。たとえば、私たちが、仕事中にふと「あの人素敵だな」と考えたとします。そういうことは仕事中であろうが許されることですね。しかし、そのソフトウェアは、そういうところまで踏み込んでしまっているような気がするんです。その点を注意して議論する必要があります。さきほどのネットトレーディングのようなことは、やりすぎは困るので歯止めをかけたいけれど、人の心の中まで見透かすようなことはやってはいけないと思います。そうすると、ここは林先生にお伺いしたいのですが、どういうふうに考えたらいいのかがまだ見えないんです。
林 私にもよく見えません。たとえば、こういうことを考えました。時計というのは工業社会の象徴みたいなもので、特定の場所においてはみんなが同じ時間を共有しています。1分間はどの人に対しても1分間です。そういうことは、情報社会にはないんですね。たとえば、最も会社に役立つ社員はどういう人かという基準を考えると、昔の会社では、決められた時間に出てきて決められた時間に仕事が終わるけれど、その中で一番能率の高い人がreliableな社員でした。いまは、たとえば、飲んだくれてどこにいるかわからないようなテレビ局の社員が、翌日出てきてすごくいいコマーシャル・コピーを出したとします。それに対して、きちんと毎日出勤して、その間は模範的な社員ですが、コピーはさえないという人がいます。これは、どちらをとったらいいのか。そういう社会になってしまいますね。そういうことを考えると、心象時計というようなものはできないかと思います。その人が、どれだけintensiveに頭脳を働かせているかが表示され、その上、色が変わったりすれば一目瞭然です。そしてGLOCOMの玄関などに、これが情報社会の時計だというように置いておく。たとえば、牧野先生がそこを通れば、充実しているかしていないかがわかってしまう(笑)。これが実現したら、こんなに危険でビッグブラザーにつながりかねないものはないなと思います。社長が社員の時計を次々見て歩いたら、誰がよくやっていて誰がサボっているかが分かってしまう。ちょっと冗談ですが。
牧野 そういう時代はすぐ来てしまうのではないでしょうか。
林 法律は、どちらかというと性悪説に立たざるをえないと思います。悪いことが起きたらこんなことになるということを想定せざるをえないわけですが、それに対して、どの程度の規範性をもたせた制度を作るかということは、また別の問題です。そのときには、経済的な配慮や、もっと広く言えば社会常識的な配慮があるわけで、性悪説からスタートしているのであれば、やはり非常に難しい問題がもともと内在している。それを、解釈、運用の中でどうしていくかという問題と、事態は時々刻々と変わっているわけですから、その適応力の問題がありますね。この永遠に解けない問題が、インターネットのおかげでドドっときてしまったということですね。
牧野 前々回の議論の中で、法律は、少し遅れてくるほうがいいという話があったと思いますが、私はちょっと違う考えをもっています。法律は、この社会の身の丈のものしか作れないから、この社会の身の丈のものだけ作ってくれればいいという面と、どちらかというと、禁止事項だけが認められていて、これをしなければOKという面がありますね。いま林先生の話を聞いて、私は、もしかしたら性善説に立っているのかもしれないと思いました。要するに、法律を決めて、明確な基準を決めておいてあげる。「ここは落とし穴だから、この周りに近づいちゃだめだよ」「ここ以外だったら自由に歩いていいよ」という、そういう部分を作ってあげている気がします。それから、日本人は「法律で認められていますか」という言い方をしますが、私は逆で、「法律で禁止されていますか」というのが基本だと思っています。禁止されていなければ、みんなフリーであると考えるべきである。その意味で、身の丈の法律をできるだけ易しく作らなければならないし、私たち市民の言葉で作っていいのではないかと思っています。その意味では、理想的な司法改革の根底にあるのは、私たちの言葉で私たちのルールを作ろうという基本ですね。
ただ、最近の法律は、ちょっと性格が変わってきていると感じます。電子署名、電子認証制度の法律についても、どちらかというと、先に向かった法律を作っているような気がします。そうすると、国民に対して、これこれをしてはいけないというコンセンサスができたときにルールができるわけで、やはり後追いにならざるをえませんから、身の丈の分かりやすい言葉で書きましょうというのが基本です。もう一つは、わが国あるいはわが社会をどうデザインしていくのかという骨格作り、インフラ作りという意味での法律もあるのではないでしょうか。その法律が、いまは非常に不安定な形で作られている気がして、大変、危惧を感じているわけです。そこで、ここは学者の出番だと思うんです。林先生が、放送法なり、通信法なりの新しい体系を考えなければならないとおっしゃっているのは、まさにこの部分だと思っています。要するに、私たちが理想と思う社会のデザインを、できるだけわかりやすい言葉で、みんなが理解できるものとして、一つテーマを決めて提示してみる。国民はみんな、それに向かって走ってみる。そうすると、違ったらまた新法を作っていくようになる。つまり、「やってはいけない」ということを定める法律と、「これからこんなことを目指そうよ」という法律があるのではないでしょうか。「これからこんな法律を目指そう」という場合、現在は、企業と官僚が癒着しすぎて法律を作っている気がしますから、そこに、もっと知的な学者が入り込んでいく。学者が私たち実務家と市民をしっかりと結びつけてくれるということ、つまり、私たちが思っている言葉にならないイメージをデザインしてくことが、いま学者に一番求められていることではないでしょうか。
林 今日は弁護士への期待を語ろうと思っていたら、最後は、学者へも期待されてしまいましたね。考えてみれば、弁護士、医者、学者は、情報を扱うことを職業としているわけです。広い意味で、情報職業に従事するということは、これからますます重要になるだろうし、その倫理というか役割をよく考えなければならないということですね。今日は勉強になりました。ありがとうございました。
1 WWW上でユーザー管理を実現する仕組み。米ネットスケープ・コミュニケーションズが開発した。WWWサーバーがユーザーを識別する文字列情報「Cookie」を生成し、WWWサーバーとブラウザの双方で格納する。仕組み全体は「Cookies」と呼ばれる。2回目のアクセス時には、ブラウザからCookieをHTTPで送信し、サーバー側のそれと照合することでユーザーを特定する。WWWサーバー側からすると、ユーザーごとにカスタマイズしたデータを見せることができ、一種のセッション管理が可能になる。(『通信・ネットワーク用語ハンドブック』99〜2000年版 日経BP社より)
2 鬼頭史郎判事補が、戦時中政治犯として収監されていた日本共産党元議長 宮本顕治氏の事件記録を調べる際、裁判官の「職務」と偽って閲覧したことで、職権濫用の罪に問われ、後に懲役10ヶ月、執行猶予2年の判決を受けた事件。
3 96年会社員と学生の二人が、プロバイダーであるベッコウアメインターネットから借りたHPスペース上に、大量のわいせつ画像を貼りつけ、公開した事件で、ホームページによる公開が、わいせつ「物」の「陳列」になるとした最初の判断。(1996年4月22日東京地裁判決)