情報技術と法制度(2)
いま、知的財産制度を再考する
名和小太郎、山田肇、林紘一郎
林 今日のテーマは知的財産制度です。前回は私と山田さんで技術と法律などについて対談を行ったのですが、今回は名和さんを入れた3人で知的財産制度について話してみようということになりました。
まず、私以外のお2人はエンジニアでいらっしゃいますが、どういう脈絡で知的財産制度に関心を持たれたのか。まず名和さんから、知的財産のなかでも特許をなさるのはまだ分かるけれども、著作権のほうにいかれたのはなぜか。そういうご経歴とこのテーマとの関係をお話いただければと思います。
名和 まず法律に足を踏み込んだのは、電電公社のせいですね。70年代に米国のARPANETの真似をしたシステムを日本で作って、そのネットワークを関係会社に広め始めましたら、郵政省から「おまえのやっていることは共同使用や他人使用1だ。そういうことは電電公社しかできないのだ」という話があって、自衛のために公衆電気通信法の勉強を始めました。それが関わった初めです。公衆電気通信法というのは、当時、郵政省の電気通信監理官室と電電公社が知っていればいい法律だったのですね。だからそうでない人間として、当時、たぶん日本で唯一、公衆電気通信法に詳しい人間だったわけです。その後、いわゆるデータ通信開放の議論があり、経団連で委員会を編成した時に委員の1人に推され、自分で勉強しなければならないことになったわけです。そういうわけで、法律に足を踏み込みました。
つぎにデータベースサービスを始めました。これが1980年です。化学会社でしたから薬品のデータがたくさんあるわけで、これを国際的にサービスしました。オンラインでは国内だけですが、磁気テープは海外にも売りました。そのときに、アメリカの出版社がたいへんな契約書をつくるということを知りました。当方の法務担当者が出ていきましたから、私自身は契約のことはあまり絡まなかったわけですが、いわゆる知的財産というものの扱いがたいへんだなということは感じたわけです。
その頃、通産省はデータベースが新しい産業の一つの分野をつくるのではないかと考え、これを育成しようということで、データベースの事業者を集めて団体を作りました。現在の日本データベース振興協会です。当時はデータベースサービス業連絡懇談会という名称で、朝日・日経といった新聞社、シンクタンクの野村・三菱、書店では紀伊国屋・丸善、ほかに帝国データバンク、東京商工リサーチなど13社が中心となって始めました。
当時の風潮としては、新しい事業団体ができると、まず、役所にいろいろ陳情に行くということでした。まず回線開放、それから、データベースの著作権の確立などに関してアピールしました。私はたまたま業界代表ということで、いろいろな役所に足を運びましたが、それなら役所側の審議会などに入れということで、著作権審議委員会、統計審議会、科学技術会議など、いろいろ参加しました。
もう一つ、私のボスが、当時中曽根臨調の財界代表の委員だったのです。それで臨調委員の私兵みたいなことを、私はやらされました。私に振られたのは情報通信関係と科学技術関係でした。第二臨調から行革審までやっていましたので、行政の中にどんな仕組みがあり、だれがどこで仕事をしていて、どこに決定権があるかということは、大体分かりました。
林 著作権をやったのも、仕事を一生懸命やろうと思ったら理の当然でそうなったという感じですね。山田さんの場合は、著作権というよりは特許のほうですよね。
山田 私は1989年にMITのビジネススクールに行って、いろいろと勉強していた時に、企業間の提携のような話が非常にたくさん出てきて、日本の様子に比べるとずいぶん活発だなと思っていました。「帰ってきたら何をしたいか」ときかれて、「共同研究や共同開発の交渉をする役をしたいです」と申し出たら、そういう職場に配属されました。
向こうで、交渉術の話や知的財産権の基本的な考え方はいちおう勉強したつもりでいましたが、日本の某社で共同研究交渉とか委託開発交渉とかの担当をしたときに、非常に面白いことが起きたんです。自分の会社の基本方針はこれだというのが与えられて、そこを出発点に交渉するように言われたのでそうしたんです。A社との共同開発の交渉で、いろいろともめごとがあって妥協して、あるところで契約書を完成しました。それで上司に決裁をもらいにいったら、すぐにもらえたんです。次に、B社と同じように共同開発交渉をしたんですが、B社もごちゃごちゃ言うので、同じように交渉して会社の利益を考えてある点で妥協して、契約を完成させて上司のところに決裁にもっていったら「この前もってきた契約書と今日の契約書は違う」と言うわけです。交渉相手が違って落着点が違うのですから、それは当然なわけですが、「おまえは毎回結論が変わるような、いい加減な交渉をしているのか」と言われて、「相手が違うから仕方ないでしょ」と言ったものの、ばからしくなりました。その時に、この会社では、ほとんど役員に近い人でも、交渉とはどういうことだとか、知的財産権――特に知的財産権の扱いでもめたんですけど――をどう考えて、どう扱うかといったことについてはほとんど知らないのだということが分かり、これだったら自分で勉強して判断していかなければいけないと思って、そこからちゃんとした勉強を始めたんですね。その前にもMITなどで一般論は習っていたのですが、自分で担当して切実な問題になって勉強を始めた。そしたら、しばらくして、標準化と知的財産権の問題について特別に扱うようなところに転勤になり、たとえば日本工業標準調査会の委員会の中でもその話をしましたし、知的財産研究所にも呼び出されてそのことについていろいろ議論するとかいうたぐいのことがたくさん起きて、なんとなくこの分野に関わるようになってきました。
法律家とエンジニア
林 この知的財産関連の問題というのは、私もゼロから勉強してしみじみ思うのですが、これを大学の半期12〜13回の講義で生徒を飽きさせないで話すというのは不可能に近いなという感じがします。きのうも慶應大学で非常勤講師の方の集いがあって、私が非常にいいと思ってお呼びした電通の方に「広告特論」というのをやってもらいました。私がいいなと思った理由は、知的財産、とくに著作権のようなものを、ビジネスの局面でこんなケースがあって、あんなケースがあって、というのを踏み込んで話してくれるからだったのですが、きのうは、その講師の方から、「先生のご意図には反して申し訳ないのですが、生徒にアンケートをとったら、知的財産のところは眠くてしょうがないから、そんなものはやらないで、広告のコマーシャルとか実例を次々に見せてくださいと言われて、ついに私は生徒に妥協しました。ごめんなさい」と言われてしまいました。
たとえば、民法だけの話をするというと、いろいろなケースもあるし、飽きさせないとは言わないまでも、何かできるような気がするんですね。刑法なら刑法でできると思うし、憲法もできると思う。しかし、そういった一般法と違って、この法律はすごく周辺にあるわけです。しかも、もっと難しいのは、ケースを持ち出すと、そのケース自体が著作権法に触れる恐れがあるので、著作権の教材というのはコピーしにくいようにしかできていないわけです。「これが実は著作権侵害なんです」と見せられないんですね。見せる素材が非常に乏しい状態になっていて、ケーススタディをやろうにも、物証を見せずに口頭伝授するしかないところが難しいという感じがしているのです。
名和 なるほどね。
林 哲学というか一般原則というのが、すごく語りにくい分野ではないかと思うのです。すごくテクニカルなものがあって、それが歴史的に積みあがってきていて、だれかが大整理することもなく、パッチワークでできているという感じがどうしてもしたのですが。それは、違うでしょうか。
名和 知的所有権の半期の講義をやったことがありますが、私は法学の素養がないものですから、多分、教え方が違うのでしょうね。
林 12回あると、どう教えるのですか。
名和 私はまず大原則の話をします。きわめておおざっぱで、たとえばアイディアは特許で著作権は表現と、本当は二分法でいかないけれど、まずは二分法で話す。それで二分法ではみ出た話をする。なぜ、はみ出たかと。たとえば著作権も特許権も政策的に対象にしない場合がありますね。著作権における法的文書とか、特許権における医療技術とか。それはいったいなぜだろうと。
林 それはエンジニアらしいといえば言えますね。
山田 それとはちょっと違う話ですが、たとえば、特許の話をいろいろな業界の人と集まって何人かでラウンドテーブルで議論するときに、「こっちの業界の人とあっちの業界の人は、特許という同じ言葉を使っているけれど全然違うものを考えているな」ということが、つくづく分かるときがあるんですね。典型的な例では、特許といえば「排他権」で自分だけが使えるものとして話している人と、「ライセンス権」だから他人に使ってもらう話だと思って議論している人と、極端にいえば2種類に分かれている。ところが、どうもそういうことについて議論ができる国内の専門家の数というのは限られているようで、ともかく専門家の先生を集めましたというと、いろいろな業界の人が集まらざるをえないような状況になって、そうすると「独占権」を意識している人と「ライセンス権」を意識している人がその場で激突してしまって、答えが全く出なくなってしまう。
もし、どちらかの考えをもった人だけが集まって議論すればきちんとした答えが出るところを、両方が混ざってしまっているのでまともな方針が出てこない。それぞれの現状をお互いに勉強し合って終わるという研究会が多すぎる気がします。同様に、著作権と言ったときに、昔からの紙の上に書いたものの話をしている人と、映画の著作権だと思いこんでいる人がいると意見が分かれますよね。そういうところがきちんと整理されていないのではないかという気がします。
林 知的財産制度とはそもそも何なのかというのは、本当はだれしも一家言もつぐらい語れるようなものでありながら、あまりに身近なものであるために、理論化し、体系化して話すというのがかえって難しいのではないかと感じます。それから、その人の出身とかバックグラウンドで、「象」をこちらから撫でたり、あちらから撫でたりしていて、その全体像になかなか到達しにくい気がしますけれど、そのへんはどうですか。
名和 そうでしょうね。
林 そこで「象」をどうやって立体として見せたらいいのでしょうか。
名和 私は、まず鼻があるよ、尻尾があるよ、という見せ方をするわけです。鼻はたとえばプログラム、尻尾はたとえばDNA配列とします。鼻を著作権で理解すればどうなる?同じ鼻を特許で理解すればどうなる?尻尾の場合はどうか?つまり、特許があるよ、著作権があるよ、と制度をさきに示すことはしない。
林 実体というのはそうだと思うんです。しかし、どうも法学者というのは、そこのところ悩みが多くて、とくに日本の法学の場合は解釈法学で、解釈の力をつけてやらなくてはと信じているわけです。こうあるべきだという政策論あるいは法政策学というのは、解釈をある程度したうえで出てくるのであって、最初から政策論が出てくるのはおかしいという発想が非常に強いわけです。すると、解釈を一通り教えようとすると、あのぐしゃぐしゃっとなった体系というのをどうやって解釈するかというところに、必ずしも価値中立的な解釈というのはありえないので、悩むということの繰り返しのような気がします。
名和 法律屋さんは、灰色のところが関心の対象になるので話がややこしくなるわけですね。学生は灰色のところはどうでもいいわけで、典型的な話、つまりイロハの「イ」が分かればいいわけです。エンジニアも周辺領域のハイレベルな議論になるところは、ロイヤーにお願いすればいいと考えているわけです。
林 すると法律屋というのは、いったいなんだということになりますが。
名和 交通整理をしてくれているのでしょうね。
経典型か微分型か
林 ところで学者というのが、プラクティスだけやっている弁護士と違って何か存在意義があるとすれば、プラクティスからは出てこない何かをやらなければ、という話に当然なりますね。知的財産についても、立法論というか政策論というか、それをやらないと、解釈もきちんとできないという相関関係がだんだんと分かってきたのではないかと思います。とくにデジタル化がそういういろいろなケースを生み出してきたので、気運としてはかなり高まっていると思うのです。ところが、エンジニアの方はすでに昔から分かっておられて、そこを突き抜けておられたのかなと思ったりするんです。
エレクトロニック・コピーライト・マネージメント・システム(ECMS)2という名前で呼ばれているのがありますね。つまり、コンピュータが発達してきたので、著作権の管理がかなり機械化でき、どんなに小さいペイメントになろうとも追跡することができるだろうという議論です。これに対して法学者は、最初はどういうリアクションだったのでしょうか。
名和 最初も今もあまり変わっていないと思います。そうなるだろうと信じて疑わないようですね。技術に対してナイーブでいらっしゃる。
林 技術がそうなるのだから、そちらのほうへ動いていくだろうというのですね。それは、自然の流れというか、抗しがたい流れということですか。
名和 そうでしょうね。私はそういうふうに理解しています。一般的には、ロイヤーの方が技術の見方がすごく楽天的ですよ。
林 エンジニアの方がむしろ悲観的なんですか。
名和 私は、エンジニアというのは自分のやっていることは間違っているのではないかといつもどこか疑っていると思うのです。完全な技術なんてないのですから。私は昔、ロケットをやっていましたが、ロケットがよく落ちていました。私の仕事はトラブルシューティングでした。その後、コンピュータ部門に移ったらバグの話ばっかりですよね。初めてパケット通信をやったときは、毎日システムが落ちるわけです。ですから、常に、作ったものに間違いがあるだろうという前提で、世の中のものを見ているわけですね。法律屋さんは、自分が作ったものは完全なものだというのが前提のようで、うっかり疑おうものなら顔色が変わるといった感じですね(笑)。人権にかかわるから。
林 山田さんの印象はいかがですか。
山田 私は先ほどのECMSの話を林さんの勉強会でしたとき、典型的な技術中心主義、技術ですべてを解決することはおかしいということを法律家に批判されたので、ちょっと名和先生とは違う印象をもっています。法律家の中でも、著作権の問題を解決する道具としてだけ考えれば確かにいいかもしれないけれど、それが結果的に基本的人権のたぐいなど、別のものを犯すという危険があるということについて、意見をもたれている方がいらっしゃると思いました。
ただ、ほかの部分については名和先生と比較的似た感じをもっていて、エンジニアの場合は、きょう自分が出した世界最高の性能というのは、あすは必ずだれかに抜かれるものなんです。したがって、どんなに素晴らしい大学教授が自分の恩師であっても、弟子は必ずその教授以上の性能を出すのが当然だと思っているし、先生たちも抜かれて当然だと思っているので、そういう意味で、今の自分の世界最高は必ずしも絶対的な世界最高でないということをすでに理解しているんですね。
それに比べて、法律家などの場合は、人間の頭でしか考えられないことで、考えることはほとんど類似なので、先人が言ったことを、悪意ではなくて気づかずに、ちょっと言及し忘れただけでも、「あの人の業績を無視した」といったたぐいの批判が出るようなところがあって、“先人を絶対に抜くことができない病”みたいになってしまう。法律関係の本を読んでいると、つまらない1920年頃の論文を20個ぐらい引用して、昔からこういう議論があったとか、延々とバックグラウンドの説明が100個ぐらい続いて、そのあとに、言いたいことがチョロっとあって終わってしまうものがすごく多い気がします。そういう意味で、人間が所詮考えることの範囲でやっているからこそ、自分のものは他人には絶対に抜かせないという意識が強いのではないかと思います。法律家はそちらの人たちではないかと思っているのですけれど。
名和 私は法律というのはバーチャルリアリティだと思っているわけです。つまり、どこかにはりつけないときちんとしないでしょう。そのはりつける方法が、今おっしゃった引用でね。100も200もはりつけて、お互いにそれを参照しながら世界を構築していくというのが法律なのかなと。はりつけるところが多いほど、もっともらしさが確実になってくる。
林 私も技術系メンタリティをもっているらしくて、人文科学系と自然科学系の差は何かなと考えていたんですが、progressがあると考えるかどうかではないかという気がしてきました。著作権を考えるときには、それは非常に基本的なことで、名和さんのご著書などを拝読して共感するのは、「今、あることをだれかが言ったときに、その表現やアイディアを守ってあげることもいいんだけれど、長期にわたって見れば、それは先人の言ったことに何か足しただけ」というくだりが何度もありますね。あそこは、私なんかはその通りだと思いました。ところが、著作権をずっとやって、特に権利の保護について敏感な人たちは、そういう発想がなかなかとれないのではないかと思うんです。
名和 それはたぶん論文のスタイルの話で、科学史の中山茂さんが学術情報の流れをたどった本があるのですね。そこに、ルネッサンスのあと、刊行物がどう変わったのかということが書いてあります。それ以前、本は教典型だったのです。つまり、だれかが書いた原典があり、これに注釈がつき、それが一つの本になって出る。そして、それにまた注釈が付く。これが昔のスタイルです。
ところが、ルネッサンス以降はそうではなくて、いってみれば微分ですね。今まではこれだけ分かっているのだから、あとこれだけ足すと。これがジャーナルですね。ですから、ニュートンぐらいまでは経典型で、そのあと、ジャーナルになってきた。スタイルが変わってきたのですね。自然科学や自然科学の周辺にある経済などは、わりとジャーナルのスタイルになってきているようですが、法律のほうは相変わらず教典型なのではないかと思います。
山田 科学技術で論文を書くときにスタイルがあって、最初のセクションは「イントロダクション」というタイトルを付けるのは常識なんですが、そのあと改行して書く言葉は「Recently」であるというのが決まっているんです。要するに、"recent"の話しかしないんです。ちょっと前にだれかがこんなことをやったけど、ちょっと工夫して改良したら速度が速くなったよとか、もっと小さい電力で動くようになったとか、新しい記憶装置ができたとか。"recent"より前のことは、その前の論文を見ればいいんだという、逐次刊行型で更新していくという体質が非常に強いんですね。
林 社会科学の場合は、たしかに、incrementalなところだけを言いたいというのもあるんですが、前の人の体系を崩すと、山の一角を崩すように他の一角も崩れてしまうような気がするので、どうしても大伽藍を建て直すというふうになってしまう。それは学問の質にもよるということでしょうか。
名和 私が社会科学者から非難されるのは、「おまえの論文はレトリックがない。ファクトばっかりでスイスイいってしまって面白くない」ということです。そこらへんが違うのでしょうね。「表現」を大事にする人と、「中身」を大事にする人と。
芸術作品と著作権
林 「表現」ということについてもっと進めてみたいと思います。我々は主として学問的表現のところを念頭において議論してきたわけですが、芸術的要素は学問的要素とは、かなりオーバーラップしている所もあるけれども、そうではない所がありますよね。すると、これを知的財産権で守ってくれという人達の発想からすると、どうでしょうか、またちょっと違った要素というのがあるのでしょうか。
名和 全然違うでしょうね。
林 そこが解けないんですよね。
名和 それはこういうことではないでしょうか。つまり、双方はまったく違う機能と価値を持っているのでしょう。違うけれども、たまたまテキストになっているからということで双方を一緒にしているだけの話でしょう。
林 うーん。これを理解するためには、自ら芸術家でなければいけないのかしら。
名和 そうですね。
林 音楽のようなもの、例えば、小林亜星と服部克久の論争3なんか、その当事者には分かるのかもしれないけど、周りの人にはどちらに軍配を挙げたらいいかなんてはっきりと判定できませんよね。
名和 芸術の世界にはパロディーというのがありますね。オリジナルの物がわからなければ面白みがない。これはとくに現代音楽とか現代美術に多いわけですが、伝統芸術にも本歌取りなどずっとあるものです。これは著作権法で言うと非常に具合の悪い話で、同一性保持権という人格権4を損なうものですね。日本の場合は、カメラマンの白川義員とアーティストのマッド・アマノの裁判5があります。あれは二回最高裁にいって、前衛美術家などが法廷へ行ってアピールしてるのですが、結局はうやむやになってしまったようです。まあ、人格権は動かせないみたいな雰囲気で一件落着した感じですね。日本の場合、あの判例に対するいろいろな解説などを見ましても、ほとんどの解釈は、パロディーは基本的にけしからんという立場ですね。そうでないにしても、世の中に良いパロディーと悪いパロディーがあるというような議論があるわけです。私はこれは大変おかしな話だと思う。
その点、アメリカには「トゥー・ライブ・クルー」という、ちょっと怪しげなラップミージシャンの裁判があって、これは、リリックなものを卑猥な形に編曲したという事件です。これはパロディーだ、パロディーは社会批判の一形態だというのが最高裁の判例です。だからパロディーによって原作が仮に全然売れなくなってしまって途絶えたとしても、それはそれでしょうがないのだと書いてありました。最後に、こんな卑猥な音楽のCDを買う人と、元のリリシズムを表現した音楽のCDを買う人は、マーケットが違うから原作者は損害を受けるはずはないという極めてコミカルな話がつながっています。非常に健全な判断ですね(笑)。そういうところは、つまり今の著作権法はなかなかうまく機能しないんじゃないかと思います。
林 絵の世界でも、昔の絵画というのは模倣して描いたものがずいぶんあるんですね。それは当たり前と言えて、たとえば、「梅にうぐいす」という絵があるとすると、実際に梅にうぐいすが止まっている確率というのはすごく少ないですよね。そしてそれを描きとめられる能力のある人がそういう機会に出会う確率というのは、もっと少ない。すると、元が少ないわけだから、次に描く人は元の絵を見ながら描いたようなのです。それを一番よく実証しているのは、松井さんという多摩センターの駅前にある美術館のオーナーで、ご自分もたくさん絵を所有されていて、それをデジタル化して今のように教育上自由に利用できるようにしたいので、それにお金を出しませんかと言われたことがあります。そのときは著作権のことをそれほど知らなくて、そのままになったのですが、どうもこの問題は芸術の根元にあることを言っているような気がしてしょうがないのです。こういう模倣とか改変とかをどう考えますか。
山田 西洋美術でも昔は宗教画しか描きませんでしたよね。マリアが生まれたばかりのキリストを抱いているところに三賢人が挨拶に来たとか、話のネタはほんの何十個しかないから、だれが描いても構図は似たようなものになるんです。そういう意味では、明らかに、先人が描いた構図を模倣して次の人も描いているはずなんです。ただ、タッチやディテールなどが違っているから絵は違って見えるけれど、基本的な構図はみんな同じですよね。そのあとの時代、たとえば印象派なんかになると、たとえば海ばかり描く人、すいれんばかり描く人というように、一人一人が全然違う対象について描き始めました。そのときになって模倣ということが厳しく問われるようになったと思うんですけれど、それより前の時代の宗教画の時代は、模倣が当然だったのではないかと思います。直感的に。
知的財産権の社会的効用
林 もう一つは、人格権なのか財産権6なのかという話です。アメリカ的に、人格権のことなど考えないでお金の勘定でいこうというのがすっきりしていいんですけれど、何が創作的な活動に対するインセンティブかというのをどんどん突き詰めていくと、アナログ時代は何かの媒体のところを押さえておけば、権利の行使と対価の徴集というのは非常に楽だったのが、デジタルになってしまうとそこのところが押さえにくいですよね。しかも、仮に合法的に押さえられたとしても、単価というのがどうなっていくかというと、ほとんどタダみたいなものがいっぱい出回るような経済になってきますよね。そうすると金銭的でない利用度というものを考える必要が出てくるように思います。すると、人格権というところに戻ってくるわけですよね。
5月の連休に著作権法の権威者の1人である斉藤博先生の『人格権論』をずっと読みまして、これはなかなかすごい、よく書いてあると思いました。ただ、2点ばかり疑念がある。一つは、法律的に言うと私法の権利だと理解しているので、憲法論などはまったくやってないこと。二つ目は、人格権的なものと財産的なものが問題として両方出てきて、今後はそれを切り離しうるようになってくる。名和さんと前からやっているアンバンドリング論ですが、それをどうするかについて考えていない。とくに、今日的に比喩として面白いのは、たとえば肖像権は、勝手に写されたり勝手にコピーされたくないという、どちらかというと守りの方のことを言っている。それに対してパブリシティ権は、写したものをブロマイドにしたりグッズにしたりして売り出そうという経済行為に結びついたもので、この2つは、表と裏の同じ行為のようであるけれども、人格権的要素と財産的要素とまったく相反するところにあるわけですね。そのへんをどう斬るかという視点を足すと、非常に面白い議論だったんではないかと思うんです。これは79年に書かれていますから、その時点で言及されたというのは素晴らしいと思うんですが、これをもうちょっと発展できないかなと思っているんです。
特許なんかも、社会的効用を果たしているかどうかという評価基準は、どうしたらいいのでしょうか。たとえば、ライセンス料がすごく高いのは、社会的に貢献している特許だという見方でいいのでしょうか。
山田 独占的に使用する権利があるわけですから、ライセンス料だけではだめですね。さっきのライセンス料と独占権の話は、ライセンスをしたときに市場が拡大すると期待される時にはライセンスをして、どっちみち拡大しないんだったら、その市場を丸ごと独占したほうが有利ですよね。だから独占するということで市場がどうなると見るかに依存するんですけれども。
林 すると、その特許に付随する金銭的リターンが最大のものが、社会的には素晴らしい特許だったという単純な理解でいいのでしょうか。
山田 それはそうでいいと思います。ただし、物差しは他にもいろいろ考えられると思います。
林 それ以外の物差しというのは?
山田 本来、特許というのは技術を公開することなんです。技術を公開する代償として、何年間かの独占権とライセンス権を付与して、それによって次の技術の発展を促すのが目的ですから、いま言ったように特許で独占したりライセンスを与えて利益を稼ぐだけではなく、そのことによってその技術が社会の主流技術になって、その分野で技術発展が起きることが、そもそもの特許の目的にかなうことだと思うんです。
林 すると、あるクラスター全体の成長が、本当は測りたいものだということですね。
山田 そうです。
林 そういうのを測った人はいるんでしょうか。
山田 私は知りませんが、名和先生いかがですか。
名和 それは知りませんが、一つの技術の影響を見るためにパテントマップなんかよくつくりますよね。
山田 パテントマップというのがまさにそうなのかもしれませんが、経済学で産業連関表というのがありますよね。公共投資に投入すると、どこにどう派生して、最終的にいくつの効果になるという、ああいうのと同じように、この技術を知的財産として保護することによって、世の中にどれだけ効果を生むかということを数えなければいけないはずなんですね。
でも、一般的に研究開発費の投資効率というのを計量的に評価しようと思うと、ほとんど絶望的になるんですけれど、それと同じように特許間の連関まで評価しようとすると、やったことはないですが、たぶん絶望的だと思います。労多くして益少なし。
特許権と著作権
林 特許の場合は、どういう制度が社会的に望ましいかについて、なんとなく合意が得られるような期待があるのですが、著作権については、どういう制度が社会的にもっとも効果的かという合意は得られるでしょうか。
名和 合意を得るのはたいへんでしょうね。
林 利害関係者がそれぞれ自分に有利なことを、主張するだけということでしょうか。というのは、制度が大きく変わるらざるを得ない局面にきているような気がするからなんです。一つは、たとえば従来型二分法で、特許か著作権か、つまりアイディアか表現かなんて言っているところへソフトウエアみたいなものができてきて、それをどっちにしたらいいのか。政策的に権利の存続期間が長い方がいいなんていう結論にややなりつつありますが、それが本当にそうなのかということはありますよね。
名和 ちょっと話をそらしますが、他の法律の世界もそうでしょうが、著作権でもいろいろと国際条約があって、日本だけが特別なものをつくれないような時代になっていますね。そうした面で、一番強力な流れをつくったのはウルグアイラウンドだと思うのですね。つまり、電気通信でもサービス貿易ということで合意したし、標準化には技術的障壁に関する協定(TBT)ができ、知的所有権にしても、いわゆる知的所有権の貿易的側面に関する協定(TRIPs)7ができましたね。ですから、ウルグアイラウンド以降はすべての分野で同じように市場主導の流れが強くなっていると思います。そういう枠組みのなかで、今まではここでしかできないとか、こういうことしかできないと限定されていた技術が、デジタルなってごちゃごちゃになってしまって、国境を越えたり、サービスの姿を変えるようになってしまったということだろうと思います。ですから、もとの土台が「国境なしにやろう、ルールもなるべくないほうがいい、なるべく余計なルールはつくるな」というのがガットの発想でしょうから、そういうところでごちゃごちゃ抵抗しても始まらない。
林 それでは、こういう代案はどうですか。つまり、特許と著作権は違う点はいろいろありますが、大きな違いは、登録する方式か、無方式で8いくかということと、権利の存続期間が20年そこそこくらいのものと、死後50年くらいあるかということです。そこで、昔風のデータベースの発想でいくと、中央登録機関があってそこに登録するのですが、今のような分散型の時代には、例えば、「登録とはこういう行為だ」ということだけ決めておいて、ウェブに掲載し、何年以上維持するようにという要件を決めて、検索エンジンで検索可能にしておく方が、無方式よりは、はるかにその実体を把握しやすいのではないでしょうか。
また、これだけドッグイヤーで世の中が動いているので、全体の権利期間も短くするほうが合理性があるのではないでしょうか。この2点は、ウルグアイラウンドで共通基盤は作ったけれども、もう一度議論してもいいのではないかと思っています。
名和 一つめの登録についてはおっしゃる通りだと思います。商売をしたい人は、必ずどこかの登録機関に登録するしくみをすでにつくっています。それは法律の有無に関わらず、そういうことになってしまっています。ですから、法律屋さんに言わせれば、「今でもやろうとすればできるわけだから、なにも今の制度を直さなくてもいいじゃないか」「無方式主義でどこが悪いのだ。やりたい人はやっているじゃないか」というわけです。そういうことをやらなければ著作権法の保護を受けられないようなしくみになれば大勢を誘導できます。実質的には、登録が前提で世の中が動き始めていると思っています。
山田 日本で特許を取得する場合は、まず出願するときにお金を払います。次に、出願しても審査請求しなければ特許にはならないので、審査請求の際にお金を払います。そして特許が成立するとお金を払うというように、3回取られます。
昨日、某大学の先生から電話がかかってきて、「なぜ、出願したときにお金を払うのか」と聞かれ、「1年半後に印刷物にして配らなければならないので、その費用くらいは出しているのじゃないですか」と答えました。すると、「では、なぜ審査のときにお金を払うのか」と聞かれたので、審査するためには審査官が労働するから、その人件費くらいは払わなければならないんじゃないですか」と言いました。「では、なぜ登録のときにお金がかかるのか」と聞かれたときに、私は答えが見つけられませんでした。しかも、特許の場合は、登録したときに登録料を支払えばそれで終わるのではなく、実は、更新料を払わなければならないのです。その更新料は、期間が長くなればそれだけ上がっていくのです。そのときには、その理由が分からなかったのですが、その先生と議論しているうちに、そのようにしておくと、ろくでもない特許は更新することに費用がかかりすぎるのでドロップされることになり、技術を公開してみんなに使わせるというもともとの目的に短い期間で到達できるからではないかという結論に達しました。つまり、登録するときだけでなく、更新するときにもお金をとるという面倒なことすることによって、放棄する方向に働かせていると解釈すればいいのだという結論に達したわけです。
著作権の場合には、おっしゃるように、本にして出版するとISBNがついて実効的に登録されると思うのですが、お金も払わないしそれを更新することもありません。そのあたりが特許と著作権では少し異なるのではないでしょうか。著作権のほうも、もともとの原著作者の知的成果に敬意を表した上で、さらに文化の発展を促すための制度であるとすれば、どこかで自由使用に向かって放棄されていなければいけないのですが、そこのメカニズムが入っていないというのは、著作権法では改善すべきことだと思います。
それから今おっしゃったのは期間の問題と登録の問題なのですが、もう一つ明らかに特許と著作権が異なる点は、著作権は世界中に共通する権利で、特許は取得した国だけで成立する権利だということです。この違いは大きいと思います。たとえばインドネシアでユニバーサルスタジオ製作映画のDVDのコピーをすると、著作権法違反だということで怒鳴り込みますよね。裁判を起こして、トラックでDVDを引きつぶしたりするわけです。それは、著作権がグローバルの権利だからできるわけですが、特許の場合には、出願して成立した国でしか権利主張は基本的にはできません。これに関しては、特許のほうがグローバルな権利に成長すべきであると思っています。
名和 特許と著作権はどこが違うかというと、特許はだれがどのような権利を持っているかが明確に分かりますが、著作権は誰がその権利を持っているのかが、悉皆に登録していないので分かりません。ここが非常に違う。つまり著作権は登記簿のようなものがない権利です。そういう怪しげな権利を、ビジネスできっちり使おうということがおかしい気がします。ビジネスで使うのであれば、誰の権利であるかを登録し、お金も納めるという、それだけの負担をすることが必要でしょう。
林 権利には義務をともなうということですね。いずれにしても、ついこの前、東京大学教授の岩井克人さんが朝日の夕刊に書いていたんですが、ブルッキングス研究所から出たペーパーによると、97年か98年のアメリカ上場企業の貸借対照表では有形資産が3割、無形資産が7割になっていて、20年前と逆転しているそうです。無形資産をどのように評価したのかはよくわかりませんが、少なくとも我々の経済が知的活動に支えられた経済に変質していることは間違いありません。そうすると、工業社会の基本権が所有権だったということに対比する情報社会の基本権は、情報財に関する何かの権利だというくらいの大きなものになっていると思います。それをどのように構築するのかということで、さきほど名和さんは、ガットで一応レベル・プレイング・フィールドができたとおっしゃいましたが、それは工業社会風にできているのではないかと思っています。これを情報社会風にどのように味をつけるかというと、立法論でやる時期ではないかと思っています。
山田 アメリカの企業で無形資産の比率が高いのは、たとえば知的財産権を持っている企業を買収する際、企業の有形資産だけで評価した金額よりも高い金額で買収すると、その差額が無形資産として計上できるからです。日本の場合は、企業の合併や吸収や統合があまり起きていないので、いくら特許を何千件も持っている企業でも、果たしてその特許の無形資産価値がいくらかというのはほとんど評価されません。日本では有形資産がほとんどで、無形資産が出ていないわけです。言ってみれば、企業買収などが活発に行われる社会であれば、トレードマークやパテントといった無形資産が自然に評価されるようになると思います。すなわち、日本はいまだに工業社会で、アメリカのような国が次の社会のはしりなのかもしれません。
林 日本の場合には、サービスはタダとか、いろいろな無形財の価値評価についての社会的風土が少し違います。そのへんがそろそろ変わってくるのかなと思います。ただ、変わってくるには、今の制度を前提にしてそこに権利を強化するだけでは、次のところにはいかないような気がします。強化するのはいいとしても、強化する面と強化しない面をはっきりさせることが必要なのではないでしょうか。
情報財の価値
名和 振り出しに戻るのですが、情報というのは、完全に経済的な価値として扱えない要素があるわけですね。そこが難しいところです。結局、著作権が自動的に発生するのは、国家権力がチェックしてはいけないという発想があるのでしょうね。
林 登録イコール検閲のような心配ですね。
名和 そうです。したがって品質はまずチェックできないということになりますね。それこそ、作品名と人の名前と日付けをつけることくらいしかできないと思います。それにしても、この歌を誰が作ったのかということはデータベースで調べればすぐに分かってしまうことがあるわけです。そこには表現の自由を萎縮させる危険なことがあるのかもしれません。
林 私もそこで少し悩んでいます。非常にプライベートな財として取り引きされる面がクロースアップされていることがあります。もともとこれは公共財的なものではありませんから、市場に出てこないという面もありますし、仲間だけの“おまえだけ情報”のやりとりという考え方もあります。
名和 そうでしょうね。つまり、権利の対象になるものは、リスクを侵そうと何をしようときちんと出す。あとは、著作権の法律の外にはずしてしまうということです。
林 私はそちらの方は「人格権だけがあって財産権はない」ということができないかと考えています。
名和 なるほど。それはそうかもしれませんね。
山田 半導体の回路パターンの登録制度やプログラムの登録制度は、あるにはあるわけですが、どう考えても、現実につくられている半導体のチップの数よりも圧倒的に少ない量の登録しかありません。プログラムも同じです。そういう意味で、審査によって検閲の問題もあるので微妙ですが、ともかくきちんと登録して守っていこうとしたときに、もうすでにやっている制度が役立たずである場合、本当に同じことができるのかということを考えなければなりません。半導体の回路パターンについても、なぜ企業がその制度を使わないのかということをレビューすることが必要でしょう。
林 だいぶ智恵をいただきましたが、最後に言い残したことがありましたらどうぞ。
名和 学術分野での著作権の扱いというのは、いわゆる一般社会でというのとはまったく違うのです。いわゆる著作権法を守っていく方の立場から言えば、学術情報はマイナーもマイナーな存在なわけです。だから全然問題として出てこないわけです。アカデミーでは自由流通でいきたいということがあります。それは言ってみればプライオリティだとかオーサーシップだとかいう概念が生きている世界だから、それをどうするかというのは人格権の話がからんでくるわけです。今、いろいろな学会のオーサーシップの定義を集めているのですが、著作権法の定義とはずいぶん違いますよ。
山田 学術雑誌というのはどうせ儲からないので、経済的な価値の話はせずに人格権の話だけだと思うのですが、自然科学系では最近面白い動きがいくつかあります。たとえば、このあいだの青山学院大学で新しい超伝導体が発見されたなんていうときには、アメリカ物理学会がプレ・パブリシング・ペーパーサイト(PPP)というのをつくったんです。本来は論文というのは査読者が審査して、その後に出版されるのですが、すると時間的な遅れがでてきてしまうので、ともかく投稿があった瞬間にそれを掲載してしまう。しかし印刷物にして配ることはせずに、ホームページに載せてだれでもダウンロードして読んだり、オンラインで読んだりできる。すると、Aという国では超伝導体温度が35Kで、Bという国のCという機関はちょっと成分を変えたら43Kになったとかいうのが逐次更新されていきますよね。そういうことで、この人がこの温度を実現したんだという業績をともかく登録できるような、要するに、レフリーも何もつかないで、投稿してきた論文は無条件で全部アップロードするというプレ・パブリシング・ペーパーサイトというサイトを作っているということがあります。それぐらい、経済的な価値よりも新しい組成成分の超伝導材料を発明した名誉を誰が取るかの方が優先されています。
名和 そうですね。
山田 それから、さきほど、「特許もグローバル特許にしたほうがいい」と言ったのですが、ヨーロッパでは実際に、今までは欧州特許庁というのに出願すると、出願受理のはんこを押されるのですが、欧州特許庁に出願したが、実際に特許を取りたいのはイギリスとフランスとドイツというようにチェックをつけると、欧州特許庁からそれぞれの国の特許庁に書類が回送されて、それぞれが独立に審査されていたんですね。それが、今度は欧州共同体特許というのをつくろうではないかという議論が起きているんだそうです。ですから、もしかすると、それがグローバル特許の先駆的事例になるかもしれません。
しかし、そこについて、問題が二つあるというふうにヨーロッパでは議論されているらしいのです。一つは、管轄裁判所をどこに置くかを定めなければならないということ。もう一つは、どの言語で書かれたものを欧州パテントとして認めるかという問題です。この二つが、私が読んだ記事に書いてあったのですが、さらに考えると、もう一つ重要な問題がある気がします。というのは、そういうことをすることによって審査機関を一つに絞ると、イギリスやフランスやドイツの特許庁のお役人がみんなクビになるわけです。グローバルパテントを作って1ヵ所で審査をするということになれば、日本の特許庁のお役人もいらなくなってしまうわけです。すると、今までの古い体制の中で国ごとのシステムで生活をしてきた人たちが失業するという問題が発生して、もしかして、それは第3の重要な問題ではないかと思います。
何が言いたいかというと、情報を自由に流通させるとか、技術も自由に流通させるとか、その一部分を著作権で守るとか特許で守るとかいうことは、原則はそれでいいのですが、実行する場合、その部分に依存している人たちの生活をどうするかという問題が発生するということにも注意を払わなければならないと思うのです。林先生の放送と通信の融合とか、著作権の話とか非常にシンプルで分かりやすいんですけれど、明日から生活できなくなったら困るというような反対派がわんさか湧いてくる危険性があると、つくづく思っています。
林 ご心配ありがとうございます。(笑)
名和 私はそのへん、比較的楽観的ですが、一つになっても分散システムだろうと思います。だから、いまのものを残しながらそれぞれ合理化していく。
林 下手をすると過渡期的にはハーモナイゼーションのコストがもっと発生する可能性はありますね。
名和 話はそれますが、アメリカのGPO(Government Printing Office)はアメリカの政府情報をディストリビュートさせるゲイトウェイです。2年ほど前、GPOの責任者とパネルディスカッションしたのですが、各省庁の独立性が高くて、GPOが公開に関与するのが難しかった。それがインターネット時代となり、分散型システムのまま統合化し、ゲートウエイの機能を果たせるようになったと言っていました。分散型は集中システムより、ずっとみんながその気になるというのですね。教訓的な話だと思いました。
山田 そうですね。たとえば日本で出願してもアメリカで出願してもいいけれど、成立したらそれは世界特許となるような分散処理をすれば、失業もしないし、世界特許も達成されるということになりますね。ただし、審査官のレベルが共通化されている場合に限るんですけれど。
名和 90年代の初め頃までは、香港にしても、シンガポールにしても、イギリスの特許庁がチェックしていたのではないですか。それが独立して自分のところでやるようになってきましたが。
林 思っていたより今日はグローバルな話になりまして、政府の役割のところはちょっと意を尽くさなかったかもしれませんが、たいへん面白い鼎談になりました。
ありがとうございました。
1 通信事業が独占であった時代には、コンピュータを通信回線に接続して利用する場合の態様に制限が設けられていた。「共同使用」といって複数社が回線を共用する場合には、会社間に一定の資本的・人的関係が必要であり、「他人使用」といって自社設備を他社に貸すことは、原則的に禁止されていた。
2 Eelectronic Copyright Management System:他人の著作物を利用する際に、著作権の確認や許諾・支払いなどが電子的に行なわれるシステム。
3 小林亜星氏が「服部克久氏が自分の作曲した曲の一部を盗用した」として訴えた事件。一審では小林氏敗訴となっている。
4 著作者の人格的な利益。著作物は著作者の人格の発露・流出物であり、著作者の人格と密接に結びついていることから、著作権法は人格的利益を保護するため、著作財産権とならんで著作者人格権を保護している。同法は、公表権、氏名表示権、同一性保持権という三つの典型的な著作者人格権を規定している。(三省堂『知的財産権辞典』)
5 写真家白川義員氏が、スキーヤーが雪山の斜面を波状のシュプールを描きつつ滑降する様子を撮影した、カラー写真を作成した。同氏は写真集に複製掲載して発表した他、保険会社の広告用カレンダーに複製掲載することを許諾した。ところがマッド・アマノ氏は、写真の一部をカットし白黒の写真に複製したうえ、右上に自動車タイヤの写真を合成したモンタージュ写真を作成し、これを無断で、昭和45年頃、自作の写真集および週刊誌に自己の写真として複製掲載した事件。
6 著作財産権のことで、一般に著作権といえば著作者人格権ではなく、財産権のことをいう(注4参照)。
7 ガット(GATT)のウルグアイラウンドに関しての閣僚会議(1986年9月)において、知的所有権は、貿易という側面においても重要な問題を含んでいるとして交渉項目の一つにとりあげられた。これは、技術や商品についての世界的規模での貿易の拡大を背景として、各国における制度の未整備や不適切な運用が、国際貿易における歪みや障害をもたらすことが多くなっていることに鑑みて、貿易的な側面から見た知的所有権制度の運用についての検討が必要となったということである。そして、その成果として知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPs)が発効した。
8 権利の発生に登録等の手続を要するものを方式主義、手続を何ら要しないものを無方式主義という。わが国の著作権法は、著作者人格権および著作(財産)権の享有には、いかなる方式の履行をも要しないとして、無方式主義を採っている。