情報社会における人格権
プライバシー権の変遷と個人情報の保護
船越一幸(北海学園北見大学教授)、青柳武彦(GLOCOM主幹研究員)、林紘一郎(慶應義塾大学教授・GLOCOM特別研究員)
林 このシリーズの対談も6回目となりますが、これまでは、情報時代になると法制度はどう変わるのかということをかなり幅広く一般論としてやってきました。先頃、たまたま船越先生の『情報とプライバシーの権利』という本に出会い、ここで展開されている議論に大変触発されたので、今回はむしろ、このテーマに焦点を絞ってご議論を願いたいと思います。私もプライバシーについて論じている本はいくつか知っていますが、船越先生の本は、他の学問との接点、つまり環境心理学という観点から論じていらっしゃるので、非常にユニークなのではないかと思っております。
まず最初に、ご著書について触れていただければと思います。とくに、人格権としてのプライバシーの権利についてですね。私も、従来の基本的人権プラスアルファという意味で、情報時代の人格権が必要ではないかという漠然としたイメージを持っていたわけですが、それをプライバシーに焦点を絞って、「こういうものがあるはずであり、認められるべきだ」とか、「それはこれから出てくる人格権のある一部であって、さらにいろいろとあるのではないか」というようなところが面白いと思っています。そのあたりをお話しいただければと思います。
プライバシー権の原点
船越 一般に、名誉権・プライバシー権・肖像権・氏名権などを総称して人格権といい、基本的人権を形成しています。その人格権の中でもプライバシーの権利は、他の基本的人権とかなり質的に違う性質を持っていると言えます。たとえば、労働基本権・参政権などは個人が自分だけの世界から飛び出して、他の人々とどう関わるかについての権利と言えますが、プライバシー権は、逆に、自分が自分であり続けるために他人に関わって欲しくない領域をガードする権利です。つまり基本的人権と言っても、社会的に積極的に関わるための権利と、関わらないための権利に大別できるわけです。
そして人格権は時代の変遷とともに、その法的表出の仕方が変わっています。古代ローマにおいても、人の沽券にかかわる言動に対しては法的に侮辱や名誉殴損で争われました。ところがプライバシーに関しては法的に表面に出てきません。そして、その後も長い間、プライバシーは法的問題として浮かび上がってこないのです。それはなぜなのかと考えたのが、この本を書いた動機です。私は、社会とか集団という言葉があまりにも漠然として捉えにくいので、もっと動態的で捉えやすい言葉として、「群れる」という表現を使います。友達と群れる、職場で同僚と群れる、というようにです。
林 それは、若い学生と普段つきあっているから、そういう発想になるのではないですか。
船越 人間は群れて暮らしていると捉えた方が理解しやすいんですね。若い頃、動物行動学・動物社会学に出会って大きく触発されました。基本的に動物も人間も群れていることに変わりありません。動物も社会をつくっているし、コミュニケーションを行っています。親子とか仲間あるいは世代間の情報の伝わり方を見ても、本質的に人間と変わりません。だから、人間の営みを捉える際、集団規範とか社会的行動と言うより、群れると言った方が捉えやすいと思うからです。
たとえば、ニホンザルでも、生活環境の違いによってその群れの食文化が異なることですね。「食べたい」という食欲は本能でも、何をどのように食べるかは、その群れによって違うわけです。なぜなら、食文化は文字通り代々群れが受け継ぐ文化(社会情報)であって、DNAによって担われる遺伝情報ではないからです。そして、人間はもちろん多くの動物も、DNAに依る遺伝情報だけで生きているのではなく、生後、習得した群れの文化に多くを依存していることがわかってきていますね。
本能と文化との関係でコンラート・ローレンツが提起した問題は、仲間殺しに対する抑制は本能に依るのかそれとも文化に依るのか、あるいは双方の抑制力が働くのかということでした。そして、動物はキバなど攻撃の武器を発達させると同時に仲間殺しを抑制する本能を強化させると説いたのは強烈でした1。たとえば、メスをめぐるオス同士の争いは、人間の目には獰猛に見えても動物は仲間の命まで奪うことはないのが普通です。オオカミの観察によると猛烈な仲間同士の争いをしても、負けた方がその印に首を差し出すと、勝った方はあと一撃で相手を倒せるというのにその動作はガタンと止まってしまい、最後の止めをささないと書いています2。ローレンツはその攻撃抑制衝動は本能的だと言います。もし、仲間同士の争いで攻撃衝動が抑制できなければ、その種は絶滅してしまうでしょう。
しかし、動物に仲間殺しがないというわけではありません。ハヌマンラングールやチンパンジーの子殺しが観察されたとき3、大変な衝撃を受けたのを鮮明に思い出します。その後、ドーキンスが「利己的遺伝子説4」を発表し、ローレンツが投げかけた問いは収束したかに見えました。しかし、他の動物に比べて人間の方が圧倒的に仲間殺しが多いわけですし、本能と文化との境界線や関連が見定められたわけではありません。
たしかに人間は、人間同士の殺しあいに対して本能的な嫌悪感を持っているとしても、仲間殺しの抑制は、主に、生後学習した文化、とくに行為規範に依っていると考えられます。「殺すなかれ」「盗むなかれ」などの行為規範は、本能の領域から文化の領域に移っていることを、現実の数々の犯罪が教えてくれます。
林 青柳さんにご参加いただいたのは、青柳さんは脳の機能などに関心をお持ちで、船越先生が言及された先天的つまりDNAのことに関して、先天的あるいは神経組織の反応の部分が多くて、第二の類型はそう多くはないとおっしゃっているように見受けられたからなのですが、いかがでしょうか。
青柳 私は第二の類型、つまり、人間が後天的に作る文化の占める部分がそう多くはないと考えているのではなく、人間の個体の意思に関わりなく行われる、いわゆるDNAの働きを正しく認識すべきであると主張しているわけです。
林先生はたぶん、青柳はこの本に共感するだろうと思われて私をこの鼎談に呼んでくださったのだろうと思いますが、ご想像の通り大変共感いたしました。第一は、本書の方法論です。私が以前から、神経生理学との関係で表現の自由の問題を考え直すべきであると主張してきた所と通ずるところがあります。これは、先日行われた公文先生の近著『文明の進化と情報化』の読書会の折に公文先生が説明されていましたが、システム論的アプローチでは、興味の対象をもっとずっと大きなものの一部として考えて、全体とのつながりの中から対象を考察します。ですから公文先生は、同書の中で情報化という対象を考える際にも、社会が産業革命から工業化社会さらには後期工業化社会へと変化する中で、情報化はどのようにして生まれてどのような役割を果たしていくかということを考察するわけです。これに対比する方法論としては、いわゆる還元論があります。一つの興味の対象を細かく要素に分解して、それぞれがどういう本質を持っていて、それぞれどのように関係しているかということを追究して、最後にそれを統合したものとして対象に至る方法です。
法律関係の本は還元論的な追究の仕方をしているものが多いですね。それでも、法学概論とか法哲学はシステム論的アプローチをしていて人間までさかのぼっていますが、プライバシー論といった各論的な詳細の部分になると、より大きいものにさかのぼっても、せいぜい憲法の幸福追求の権利とか、人間の尊厳とか、そのへんまでですね。船越先生の場合は、文化人類学的、動物行動学的な考察までさかのぼって、人間はどういうものか、動物との対比でどのように考えられるのかという、そこのところから対象を追究しておられる。大変学際的というか、弁護士や検察官などのいわゆる法律専門家とはまったく違う視点があって、非常に共感できて嬉しく思いました。
林 人間がある行動を起こすということについては、生まれつきの部分と後天的な部分があるということですが、今の神経生理学の業績というのはどちらのことをやっているのでしょうか。私は、ある程度のことはDNAで説明できるという方向にいっているのかなと邪推していたのですが、どうなのでしょうか。
青柳 DNAでかなりの程度まで説明できる人間のあるがままの姿と、現在の法律制度はかなり矛盾しているところがあると考えています。法律というのは人間のあらまほしき姿を規定している、つまり論理を言っているわけですね。論理というのは、大脳新皮質の働きで生み出される精神活動ですから、大変後天的です。これは論理的な思考の経験と訓練によって生成されていることが多いわけです。ところが、大脳辺縁系とか脳幹という人間の生命のいとなみの基本的な部分を受けもっている部分の機能は、DNAでずっと受け継いできている部分です。
法律というのは、純粋に論理で構成されているように一般には信じられていますが、実は、ものの考え方自体が、抵抗できないくらいに、大脳辺縁系と脳幹で表現される人間のありようというものに支配されているのです。非論理的な法律は沢山あります。これは、論理でものを考える人はなかなか認めたがらないことです。
ですから私は、プライバシーの権利を考えるにあたっても、理屈で「そうではないか」と思っても、「そもそも人間のありようがそうではないのだから、そんな理屈は成り立たない」という姿勢の考察がないとだめだと思います。具体的に言いますと、「人間はなぜ戦争をするのか、平和を実現するためにはどうすればいいのか」という問題に対して、「世界中の人が真剣に戦争をなくすことを願って話し合いを徹底的に行う、そうすれば戦争はいつかはなくなるはずである」ということを大真面目に唱える人が沢山います。これは反DNA的というか、人間が人間であるということ自体を否定したような考え方です。そして法律というのはまさにそういう部分が多いのです。例えば、憲法前文の「日本国民は(中略)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」などという個所は、DNA的にはあり得ない絵空事の議論です。論理はそうであっても、人間というのはそれほど論理的な存在ではないではないかというのが、以前から私が主張してきたことでもあるわけです。
プライバシー権の変遷
林 プライバシーに焦点をあててみると、プライバシーの原点というのは、たとえばここに3人座っていて、どのくらいの距離感で座っているのが快適かといったことでしょうか。
船越 たとえば、親しい間柄では個体間距離は小さく、疎遠になる程その距離は大きくなりやすい、あるいは、知らない人たちがテーブルを囲むと、面と向かって座っている人より斜めに座った場合の方が会話が起こりやすい、さらに、社長の机が大きいのは権威を保つための空間の確保であるといった研究が広く知られていますね。
人間の場合は、お互いに名前、職業、年齢が分かれば、なんとなく相手が分かったような気になります。対人認知というものです。相手が誰だかまったく分からないという不安感がなくなると、人間はある程度群れあうことができます。ただ、どんなにグローバル化しても60億人もの情報処理はできませんね。どんなにインターネットが普及しても、それは不可能です。つい200〜300年前までは、おそらく人間の集団はそれほど大きくなかったし、お互いによく知り合っていました。
林 プライバシー論のそもそもの発端の論文は、ボストンに住んでいる有名人たちが、今までは平穏は生活をしていたのに、マスメディアができてきて追いかけられるようになった。これはいったいいかなるものだということで、ウォーレンとブランダイスという二人が論文を書いたということですね。それが書かれた19世紀末とそれ以前というのは、どこが違うのでしょうか。
船越 人間の群れが小さい場合は互いに顔見知りの関係にあると言えます。今でも地域によっては小集団で互いによく知り合って暮らしているところが少なくありません。歴史的にも現代の人口爆発以前は、人の集団はそう大きなものではなく、メンバーは互いの個人史や性癖を知り合って群れていたと言えます。
急激な人口増加がなく科学技術などが劇的に発展しなかった時代、人は何千年・何万年という長い間、知識・技能・価値観・群れのルールなどをゆっくり進展させながら世代から世代へと受け継いできました。また、身分制・階層制の社会ですから貴族は貴族、農民は農民というそれぞれのサブカルチャーの中で生きていたと言えます。服装、言葉づかい、娯楽、生活様式、仕事などにそれぞれのサブカルチャーがあり、その社会に必要な情報の総量を個人が分有し伝承した社会ですね。
ですから、情報の個人分有と相互認知を基本とする社会では、言葉など情報領域で人と人のかかわり方に紛争が起きたとしても、それは侮辱や名誉毀損の次元であって、プライバシー問題はまだ社会の水面下にあり、浮かび上がっていなかったと言えます。
ところが、近代社会以後、成人男子の制限選挙に代表されるように、それまで社会の水面下にいた市民たちが表舞台に登場しました。こうした社会構造の変革で、それまでの話し言葉と手書き文書によるコミュニケーションだけでは不十分になります。新しいメディアが出現すると社会システムが変わるのか、社会構造が変化したから新しいメディアが登場したのかはニワトリと卵の関係でしょうが、いずれにしても、近代国家の誕生と都市化に伴い、膨大な見知らぬ他人に取り囲まれて生活するようになりました。
こうして近代以後、たえず見知らぬ他人と接する生活になると、伝統的な顔見知り社会とは違った群れのルールが必要になります。それが、必要以上に他人にかかわらないという近代市民のルールも誕生させるのですね。
林 船越先生の本にも、「儀礼的に黙っている」というようなことが書かれてありましたね。
船越 社会学者のE・ゴフマンは刺激的です。ゴフマンは、未知の人々が街頭などで出会う場合、互いに無関心をよそおうことを「儀礼的無関心(civi1 inattention)5」と呼び、また、親しい間柄にあっても互いに相手にとって苦痛や困惑を伴う話題を避けることを「回避の儀式(avoidance ritual)6」と呼んでいます。そして、こうした市民的儀礼を破ることはプライバシー侵害につながると指摘したのですね。つまり、プライバシーは膨大な見知らぬ他人と生活するようになった近代が生んだ新しい群れのルールであるという認識です。さきほど、伝統的社会ではプライバシーが社会の水面下にあって問題にならないと言いましたが、近代になると次第に市民的儀礼として他人に対する“意図的コミュニケーション制御”が社会規範化してきます。そして、当時のマスメディア、とくにイエロージャーナリズムがスキャンダリズムに堕したため、1890年、ウォーレンとブランダイスが「プライバシーの権利」を世に問い、やがて法的保護に値する利益となったのが、いわゆる伝統的プライバシーの権利なのです。
青柳 伝統的なプライバシー権というのは、「The right to be let alone」という表現にあらわされていますね。1960年に ウィリアム・L・プロッサーは以下の四つを挙げています。すなわち、第一に「私的領域への侵入をはばむ権利」、第二に「他人に知られたくない私事の公開をはばむ権利」、第三に「ある事実が公表されて世人に誤った印象を与えたことを防ぐ権利」、及び第四に「他人の氏名や肖像を営利目的のため無断で使用することを防ぐ権利」です。つまり、プライバシーというのは個人の尊厳の核となる領域の問題であり、侵害から守られるべき人格的法益がその概念であったと思います。
林 このプロッサーの解釈は、プライバシーという言葉ができた1890年から70年経ってから出されたものですね。アメリカでもかなり頻繁に引用されますが、アメリカ人は面白くて、物理的に家に侵入することと、覗き見したり写真を撮ったりすることをすべてひっくるめてプライバシーの概念として考えていますね。私たちからすると違うことのように思えるのですが、これについては青柳さんはどのようにお考えになりますか。
青柳 この問題は、情報化が進展してくると、それとともにプライバシーの概念がどのように変わってくるかということに関係してくると思います。情報化が進展してコミュニケーション手段が複雑化し多岐にわたるようになると、国家権力とか他人からのおせっかいとか、ジャーナリズムの取材が、昔よりは激しくなって、私的領域に侵入してくる危険性が非常に高くなります。そうなると単に「ほっといてくれ(to be let alone)」と言っているだけでは守り切れなくなってしまう。それに対する姿勢もより能動的、積極的にならざるを得なくなっているわけです。したがってプライバシーの考え方も、受動的なものから能動的なものに、消極的なものから積極的なものになっていって、その結果、個人情報のコントロール権というものも、しっかりとプライバシーの権利として認知されるべきであるという意見が強くなってきました。
前に申し上げた古典的なプロッサーの四つのプライバシーの定義に比較して、最近発表された著作に、ローレンス・レッシグ7の『Code and Other Laws of Cyberspace』があります。レッシグはプライバシー権について三つのことを言っています。はじめの二つは、「Privacy to minimize burden(侵入を最小化するためのプライバシー)」と「Privacy as dignity(尊厳としてのプライバシー)」です。これらの二つは、伝統的な、いわゆる守備的なプライバシーの概念なのですが、三つ目は、「Privacy as substantive(実体としてのプライバシー)」です。国が規制する力を制限する方法の一つとしてのプライバシー権の考え方です。つまり、国がある人を罰するために当人の記録を証拠として収集しようとする時に、その人が自らを防御する権利の根拠としてプライバシー権を持たなくてはならない、ということを言っています。この三つ目の概念が、情報化時代以降に歴史的に追加された考え方と言ってよいでしょう。この第三点の主張が大きくなっているということが非常に特徴的です。
また、私的領域のサイズがきわめてcontingentであって、政治、文化、制度のありようとともに大きく変わってくるということもあると思います。
林 これは理念としては分かるのですが、実定法的に考えると、さきほどから議論になっている、どのくらいの距離が心地よい(cozy)かという動物に近いレベルに始まっても、それが関係の中で決まるとなると、そこで非常に相対化されていますよね。片方で、その関係はどういうことかというと、今までの基本的人権を最初に考えた時に、国家権力と個人の関係だと考えたと思うのですが、今、基本的人権は、私人間にも間接的にせよ考え方としては適用されてしかるべきだということになっている。すると、日本的に言えば、法律に文言として書かないと法的安定性は非常に危うくなるというようなことになると、プライバシーというのは、いったい権利として書けるのかというような質問を発したくなるのですが、それはどのように考えたらいいのでしょうか。これは日本法には伝統はないのですが、なにか一般原則を漠然と書いておいて裁判で決めることになるのでしょうか。
青柳 現状では、プライバシー権侵害犯というものは法律に書いてありませんが、刑法には名誉毀損8と侮辱罪9があります。民法においても不法行為10としての名誉毀損とプライバシー侵害があります。私は成文法にしたほうがいいとは思いますが、その場合には民法と刑法の両方に書いておいたほうがいいと思います。
林 憲法論にするという発想ではありませんか?
青柳 憲法に書いてあるというだけでは、何も書いてないというのと同じことになりかねませんからね(笑)。
船越 実は公的場所におけるプライバシーの存在について私に大きな示唆を与えて下さったのが伊藤正巳先生11なのですが、伊藤先生は憲法の基本的人権等の規定は理念に過ぎないと喝破されています。憲法にはその時代の理念が書かれているわけですから、それを実際に法令や判例で具現化しないと実態のあるものにならないのです。逆に、現実の社会が憲法で想定した社会より劇的に変化した場合は、その間のギャップを埋める作業が必要になりますね。
その意味では、to be let alone を主軸とする伝統的プライバシーの権利に加えて、新しい課題が浮上していますね。一つは、IT技術の発展に伴ってeビジネスが普及し、ドワィアー事件12のように個人情報・個人信用情報などが経済活動に頻繁に利用されるようになったため、to be 1et alone だけではなく、自己情報コントロール権を中核とする情報プライバシー、データ・プライバシーが緊急の課題となったことです。日本でも個人情報保護基本法の制定が急がれています。これはゴフマン流の“意図的コミュニケーション制御”とは異質のもので、情報主体である市民が積極的に自己情報の管理に乗り出すことで個人情報にかかわるプライバシー保護を図ろうというものです。
もう一つは、インターネット社会が完全匿名を許すコミュニケーションを可能にしたため、身元不明の人が書き込んだメール等によって人格を著しく傷つけられ、プライバシーを侵害されるケースが激増したことです。たとえば、オクラホマ連邦ビル爆破に関連してゼランが爆殺を支持するアイテムを売り出していると、彼の連絡先情報をまったく身元不明の人が電子掲示板に書き込み、ゼランが甚大な人権侵害を受けた事件13では、相手を特定できないため、当人に対して対抗措置をとることができなかったのです。
このように、本人の意思とは無関係に個人情報が経済利用されるとか、完全匿名を許すインターネット社会は、伝統的社会はもちろん近代社会が育てた市民的儀礼としての「匿名性」とはまったく違う次元の群れ方です。今まで人類が経験したことのない群れ方だと言っても過言ではないでしょう。
したがって、こうした新しい群れ方に対するルールの形成が緊急の課題として浮上しているわけです。旧いルールの解釈ではとうてい現実の事態に追いつきません。その意味では、継続審議となった個人情報保護基本法案14を見ますと、個人情報取扱業者に向けた法案と言えるほど取扱業者の原則的ルールだけが書いてある。しかも、原則は基本法で定め、あとは業界ごとの事情に合わせた個別法や業界の自主規制で対応しようとしています。業界向きの法案と言ってもいい。確かに、情報主体(市民)の自己情報コントロール権に触れてはいますが極めて不十分で万同性がなく具体性がない。その点が、林先生15のように、電子社会における著作権の新しいあり方を具体的に提言なさっているのとは対照的です。
個人の存在と行動の記録がすべて電子記録され利用される時代には、林先生のように、個人情報を人格権の面からも財産権の面からも新しく把握し直して、それを確固たる法的利益に昇華させなければならないと思います。
林 そのためには、憲法論だと言い出さないと、そういう論議のテーブルに乗らないのではないかというのが私の発想です。私は憲法のエンフォースメントというのは第9条をはじめとして、それほど強いものではないということはその通りだと思っています。ただ、論議のたて方として、基本的人権というのが今まであったけれども、それに情報時代の基本的人権を足すぐらいのことを言い出さないと、今のような議論になりにくいのではないかと思ったのでお聞きしたわけです。
船越 確かにそうかもしれません。お話を聞いていると、憲法に明記できるのであれば、それは大変いいことだと思います。
青柳 ただ、多くの憲法学者が言っていることですが、憲法は私人は関係ないと言うんですね。憲法は国と公務員の関係を律しているだけであるということなんです。私にとっては奇異に感じます。
船越 それが基本ですね。
青柳 ただ、プライバシーというのは、私人対私人ということが非常に大きな要素を占めているので、もし憲法がそういう性格のものであれば、憲法に書いておくだけではだめだと思うんです。
船越 憲法の規定は、権力機構が国民の権利を侵さないようにするための規定であって、直接、私人間に適用するものではないという判例・学説が多いのは事実です。しかし、たとえ建前に過ぎなくても、主権者である国民の委託を受けて権力機構が存在し機能するわけですから、その主権者である私人間に直接適応しないという考え方は納得できません。
古い言葉に「公僕」というのがあります。憲法は、原則的に、公僕が主権者の権利を踏みにじらないためのルールであり、公権力と国民の関係を定めたものであるならぱ、主権者同士にも憲法が直接適用されてしかるべきです。しかし、私人間は「当事者主義」でやって下さいというわけです。ところが、この当事者主義が非常に曲者なんですね。
ナポレオン民法典は、それまでの封建制による身分的格差を打ち破るために当事者主義を打ち出しましたが、その根底は市民は平等だということにあります。したがって、近代法の当事者主義がもたらした成果は極めて大きいのですが、その時代は、主権者として社会の表舞台に登場していた市民は、そう多くなかったことに注目すべきだと思います。さきほども集団規模と社会的コミュニケーションのありようは大きく関係すると言いましたが、当時は、発行部数1万程度の新聞が市民階級の論戦と合意形成に十分その役割を果たしていました。しかも、「人権宣言」が男性市民のための人権宣言であり、それに対抗して女性のための人権宣言を書いたオランブ・ド・グージュが、革命政府によって捕らえられ処刑されたことが雄弁に語るのは、多くの労働階層、女性、年少者は依然として社会の底辺にいて、人権など考えるべくもなかったことです。財産や納税による制限選挙が廃止され、成年男子による昔通選挙が世界的に広まるのが19世紀中頃からで、さらに女性が選挙権を得て、憲法上も社会の主人公となるのは20世紀に入ってからです。
つまり、近代法の当事者主義は、新興勢力であった少数の市民が法的にも社会的にも対等であることを前提としています。対等な関係にあれば、当事者主義で私人間の争いを解決できる可能性は大きいのです。しかし、現代は当事者主義を貫くと、逆に、社会的公平や法的公正を欠くことになりかねません。労働者の団結権・団体交渉権、あるいは製造物責任法における過失責任主義からの大転換などは、当事者主義に起因する社会的不公平や法的不公正を軌道修正するための現代法理ですね。航空機などの交通機関を利用するとき、利用者と企業の間には「約款」という契約が結ばれますね。大量生産大量消費になればなるほど、企業と消費者の距離は遠ざかりますから、一人一人と契約を結ぶのは現実的でありません。だから事業者が前もって定めた約款に利用者が同意したカタチをとります。当事者主義というカタチです。そうしなければならないほど消費主体が膨大に増えたと言ってしまえぱそれまでですが、逆に言えば、消費主体が膨大に増加した社会に、いまだ適切な法体系が生まれていないということです。個人情報保護基本法案も、こうした点から再構築する必要があります。
林 最近の例だと、シュリンクラップ契約16というのがありますね。ソフトを買ってきて、ビリビリっと破いたら、自動的に契約したことになるというものです。
船越 それは、当事者主義からははみ出していると思いますね。
青柳 プライバシー権に関する私的領域のサイズは千差万別ですね。優れた比較文明評論家でGLOCOMの主任研究員でもある呉善花さんがある本に書いておられたのですが、韓国人と日本人のプライバシーに関するスペースの感覚はだいぶ違うそうです。彼女が日本に来た当初は、日本人の友達とできるだけ仲良くなりたい思って、手をつないだり、友人のお弁当を覗き込んでおかずを取ったりしたけれど、非常にひんしゅくをかったそうです。韓国では、男同士でも女同士でも仲がよければ手をつないで歩いているそうですが、日本では手をつなぐのは男女のカップルだけですね。日本では、断りもせずに人のお弁当を覗き込んでおかずなんて取ってはいけない、「親しき仲にも礼儀あり」ということになっています。つまり、韓国人の親しくなりたい、親しくなったという私的スペースの感覚と、日本人の私的スペースの感覚は全然違うということです。そういう感覚は非常に相対的で、文化的な背景に影響される問題が非常に多いですね。このケースは国際的ギャップの例ですが、日本国内においてもプライバシーに関する考え方というのは、人によって常に衝突してしまいますから、当事者主義にまかせて相談して決めなさいと言っても、収拾がつかないのではないかと思います。
個人情報のコントロール権
林 今回は結論が出ない問題なので、こんな難しいことがあるということを次々と挙げていきます。今はずっと人格権について論じてきたわけですが、さらに事態を複雑にしているのは、プロッサーの中にもパブリシティーの権利のようなものが、プライバシーの権利の派生権として論じられていますよね。こちらのほうは、実は原点であるto be let aloneではなくて、むしろどんどん世間にはexposeしていくというか、ある意味では、自分のプライバシーを切り売りしていくことになるわけですね。この切り売り権は、情報自己コントロール権といえば同じようにくくれるのですが、本来の狭い意味でのプライバシーの自己コントロール権というのは、「他の目的には使ってはいけない」ということです。ところが今は、「どんどん使ってカネはもらいたいんだ、しかし、そのやり方については自分がコントロールする」ということですね。ここのところをどのように理解したらいいのでしょうか。
船越 まったくの試考ですが、人格権のトポロジーというか、個人情報の位相の移り変りを図に示してみると、インターネット時代の人格権は財産権に向かってシフトし、秘匿の権利といわれたプライバシーも社会的開示の方向に動いているのがわかります。
仮に、電子社会以前の人格権の原点をaとし、縦軸の対極に社会的開示と非開示、横軸の対極に人格的利益と経済的利益を置くと、パブリシティ権は初めから社会的開示と経済的利益に囲まれた[V]の領域にあったと言えます。個人情報全体としては、個人の存在と行動のすべてが電子記録され利用されるようになると、原点aが原点bに向かって移動し、位相が変化したと捉えることができます。個入識別情報はこれまでも社会的開示を原則としていましたが、病歴、犯歴、社会的身分、宗教、思想信条など、これまで秘匿することで人格的利益を守ろうとしたセンシティブ情報が、今では事業者にとって最も価値ある情報となっていますから、次第に社会的開示の方向に移動しているわけです。したがって、個人情報は人格権の面とともに財産権の性格を強めていると思います。肖像権がパブリシティ権として財産権化したように、個人情報を財産権として捉え直すと、その方が、自己情報コントロール権が確固たるものになると思います。
林 実は、私はまったく別の著作権について、著作者人格権と著作財産権の関係で、これが二つに分けられるのか、それとも一体化したほうがいいのかということをずいぶん悩んできました。斉藤博先生の『人格権法の研究』を読んでも、結局、プライバシーとかパブリシティ、非常に切り分けにくいがやや側面が違うという問題が、著作権のときにも現われているんです。両方を共通の尺度でみて、もちろん、船越先生がおっしゃったようにばっさり切れるものではありませんが、学者としては何か類型がほしいな、分類学をしたいなという気がしています。
名和小太郎さんの批評によれば、著作物の人格権と財産権を分けた上で、さらに人格権を重んじろと言っているのは、たぶん私が世界で初めてだろうということです。少し大げさですが、そこのところが私は気になっています。ですから、私が船越先生の本を読んで、これは面白いと思った理由は、私自身がそういうことで悩んでいたので、ひょっとするとここで議論したり、今後いろいろと教えていただいて、人格権というくくりの中に、プライバシーの人格権だけではなくて、もっと他の側面があって、その相互作用を研究すると何か概念ができるかなという期待を抱いたからです。
青柳 私は、プライバシー権の概念は、人格権と財産権の中間にあって、それぞれの接点は重なり合っていると考えています。プライバシー権の守備的な面が人格権であり、積極的かつ能動的側面が財産権に属するのではないでしょうか。個人情報のコントロール権についても、これからは制度が徐々に完備してきていろいろといいことが出てくると思います。
今はコントロールする制度があまりにもなさすぎるということが言えますね。「HOT WIRED」に出ていた記事ですが、アメリカのプライバシー財団のチーフ・テクノロジー・オフィサーであるリチャード・スミスという人が、FBIのデータベースを見る機会があったので、自分の情報を調べてみたそうです。それによると、「リチャード・スミス氏は1976年にすでに死亡。メアリーという女性と結婚していて、存命中はテキサス州に服役していた。刑務所仲間からは、リッキー・スミスと呼ばれていた」ということが書かれていたそうです。もちろん、とんでもない間違いです。
自己の個人情報をコントロールする権利をうまく制御できるシステムが行き渡れば、こうした自分の間違った情報を訂正する機会を持つことができるようになります。それは社会にとっても正しい情報を持てるということを意味します。また、この制度が行き渡ると、本人がこの情報を使ってもいいかどうかという承諾を周知せしめることができるようになると思います。逆にいうと、そういうシステムがない場合には、自分の情報を抱え込んで絶対に二次利用は許さないということにでもしないとプライバシーは守れないことになります。個人情報のうちのこの部分は利用してもいい、ただしここまでだ、というようなことを、多くの人が認め合うようにすべきでしょう。それにより正しい情報が得られるし、データマイニング的な分析を行って社会的に有用かつ貴重な情報がどんどん出てくるようになります。ですから、個人情報コントロール権を強化するということは、必ずしも守備的な発想ではなくて、もっと積極的で楽しい発想で考えてしかるべきだと思います。
船越 EU指令95/4617に基づいて、欧州各国は個人情報保護政策をたてましたが、ドイツのいわゆるマルチメディア法は、何をするにも本人の同意を必要とすると定めています。個人情報収集に対する本人の同意、利用目的に対する同意、目的外使用に対する同意、そして、アクセス権、自己情報訂正権、何時でも合理的理由があればそれらの同意を破棄できる権利など、あらゆる面で情報主体を前面に打ち出していますね。日本ではそこまで行けるかどうか、保護基本法案を見るかぎり心もとないものがあります。
ただ現実面で、アクセス権や訂正権を行使する場合、いちいち各事業者にコンタクトしなければならないのでは、自己情報コントロール権と言っても絵に描いた餅に過ぎなくなってしまいます。そこで、青柳先生が言われるようなシステムをつくると今度はセキュリティの面で危険性が高まる可能性がありますね。
青柳 個人情報を一元的に管理するシステムが、自然発生的に出てくるのではないかという希望を私は持っています。
林 それは希望なんですね。
青柳 現実的可能性といってもよいでしょう。アメリカには、ダイレクト・マーケティング・アソシエーション(DMA)というのがあって、消費者のうちのダイレクトメールを受け取りたくない人の希望を受け付けてデータベースを作って管理しています。費用をかけてダイレクトメールを出したり、テレ・マーケティングを行う人は空振りをしたくないわけですから、DMAからネガティブリストを買って、自分の持っているリストから希望しない人を削除して、残った相手にダイレクトメールを送るという方法をとっています。これは非常に効率的です。ところが、最近は、一人暮らしのお年寄りの方が、DMAに登録したらダイレクトメールも電話もこなくなってしまってさびしくなったということで、ネガティブリストからはずしてほしいと申し出たというエピソードもあるくらいです。そういうシステムは徐々にできてきて、それがビジネスとしてもペイするようになるのではないかと思っています。
船越 一元管理できるシステムをどのようにつくっていくかということは、いちばん大事だと思います。個人がそこにアクセスできて、自己コントロールできることが本当はいいのですが、これはもろ刃の剣ですね。
林 私は1年ほど前に引っ越しをしたので、銀行に住所変更届を出さざるをえなかったわけですが、私の住所を持っている機関がいくつあるのかということを考えました。ものすごくたくさんあるんですが、自分のホームページに新住所を載せておいて、知りたい人はそこにアクセスして直してくれるという機関はないかなと考えました。その後、ひょっとすると今のしくみのほうがいいかもしれないと思い直しました。例が正しくないかもしれませんが、今、著作権のほうでも一元管理の方向でいろいろなシステムを開発しているのですが、これは分散型でデータベースをつくったほうがいいのではないかという発想になりました。なぜなら、自分が10年前に書いた本を見返してみて、あまりレベルが高くないなと思うことはあるわけです。またJASRAC(日本音楽著作権協会)に対する批判に、「一括信託せよ」というやり方に対する批判があります。自分の著作物は、未来も含めてすべて預けなければいけないというものです。それに対して批判があるということは、著作権管理も分散データベースが可能なら分散管理でいいのではないかと言っているわけで、おそらく一元管理のシステムではできないのではないでしょうか。それと同じで、プライバシー的なことも、どこにあるか分からないという不安もあるし、それが間違っているという不安もあるのですが、すべてが一元化された時にそれが盗まれる不安に比べれば、分散管理のほうがいいのかもしれません。
船越 あるいは、自己の情報は自分でコントロールしなさいという時代に入ると、ただちに自己責任の問題に転嫁してしまう恐れがあります。金融ビッグバン騒動のとき、ハイリスク・ハイリターンを選ぶかどうかは自己責任の問題だという論法が強調されましたが、有価証券報告書にさえ虚偽報告があったくらいですから、一般の市民が金融機関の経営・運営状態を把握できるわけがありません。運営や経営の詳細情報が公開されない限り、自己責任の取りようがないということです。同様に、自己情報コントロール権をもって自己貢任にすり替える可能性が十分考えられます。もし、安全なシステムが可能なら、それがいちばんいいのですが、その際は一元管理あるいは業界ごとの分散管理が考えられますね。
林 今の技術で言えば、リンクがはってあるということでしょうか。
青柳 そういう技術はできると思います。
船越 現実論として、自己情報管理といっても、どのようにするのかという点を解決しないと、この個人情報保護ということは、言葉の上だけで終わりますよね。
林 ただ、私が電話会社にいたから余計に思うことですが、さきほどのご批判として、個人情報基本法というのは事業者規制法のようなもので、基本的人権として個人情報を保護しようという発想になっていません。それはその通りだと思いますが、実効を確保しようとすると、仲介業者に何かしばりをかけるのがいちばん効率的だと思います。たとえば、電話帳のことをお考えいただければいいと思いますが、電話帳に「載せる」か「載せない」かというのは個人の自由で、「載せない」ということができます。ところが、そのもとの原簿には住所も電話番号もありますね。そうすると、個人と業者の関係でいくと、一見、自己情報をコントロールして世間に出ないようにしたつもりでいても、その実、内部資料としては「ある」ということになって、結果としてはコントロールはすり抜けということになりますね。リンクを張るか張らないかというレベルでいくと、公表するかしないかのところにしかリンクは張れませんから、その中には行けないとなると、結局私は、一発のボタンで全部が触われるというのは夢ではないかと、どうしても思ってしまいます。
青柳 それは選択的にできるのではないでしょうか。個人情報保護というプラットフォームの上でエージェントが一つできて、ある人が引っ越した場合には、そのエージェントだけに引っ越し情報を通知すればよいことにするわけです。そのエージェントが考え得るありとあらゆるところ、またはある条件に合致したところだけに連絡してくれるというものです。その人にとって、引っ越したという情報が知れ渡るという利益の方が大きいと思えばエージェントに頼めばいいし、不利益の方が大きいということであれば頼まないということにすればよいわけです。こういう新しいビジネスモデルができるのではないでしょうか。個人情報データベースに関するアメリカのDMAのようなものですね。
匿名社会と新しいルール
林 インターネットが出てきたら、さきほどの群れ方などの想定が非常に崩れてしまう。人類全体がグローバルにアクセスできるという話が出たと思いますが、それと社会を賑わしている電車の中でのいざこざ、場合によっては殺人に及んでしまうようなことというのは、非常に関係があるような気がするのですが、船越先生はどのようにお考えでしょうか。
船越 ちょっと話がずれるかもしれませんが、現代の匿名性と関連すると思いますね。ジンバルド18の有名な実験に、匿名性が高まると人間は残忍性を露呈するというのがあります。目の部分だけを開けた頭巾とダブダブの服を着て、自分が誰か、自分が何をしたかをまったく分からない状態にした数人が実験に参加します。ダブダブ服の人たちが被験者(実はサクラ)に質問をし、答を間違うと電気ショックを与えるという実験デザインです。電気ショックは答を間違うたびに強くなりますから、被験者は苦痛の声をあげて抗議します。
互いに顔をだし、誰がどのレベルの電気スイッチを押したのかが分かる状態で行った別の実験と比べると、人間は匿名性の中に隠れるほど残忍性が高まる結果になっています。
匿名性の中では電気ショックを与える相手が誰かに関係なく、時間が経つにつれてますます攻撃性が高まるのです。最近の事件も互いに無関係の人たちの間で頻発していますね。
現在のインターネット社会は完全匿名を許す社会ですが、これは人間の歴史の中で初めて遭遇する事態だと思います。さきほど言いました近代社会の儀礼的匿名性とはまったく異なる群れ方です。では、巨大な匿名社会・無名社会で、どのように秩序を保っていけばいいのか、群れていけばいいのか、まだ、よく分かっていないように思います。
でも、早急に巨大無名社会の群れのルールを作り上げていかなければならないと思います。
青柳 私はそれについては非常に悲観的です。匿名社会のルールや秩序を考えるなどというのはやるべきでない、むしろ断固廃すべきであると思っています。多くの方がインターネット上の匿名で行われるコミュニケーションについての意義を考えたり論じたりしておられますが、そうすると、だんだんそれを社会が認知するようになってしまいます。匿名というのは自分の発言に責任を持たないということであり、コミュニケーションのあるべき姿ではないと思います。ネットワークの価値というのは、他のネットワーク手段と組み合わせてだんだん広がっていくことにあるわけですが、匿名によるコミュニケーションというのは自分の世界をどんどん狭く限定していくという方向にしか動かざるを得ないので、発展性がありません。匿名が例外的に価値があると思われるのは、名前を出すと不測の被害を被るというような、緊急避難的な意味においてのみだと思うのですが、このようなものは非常に少数例です。社会科学者は、インターネットによって匿名という新しいコミュニケーション手段が出てきたとか、その意義は、などということを論じるべきではないと思います。こんなものはだめだ、発言というものは責任をともなうべきであるということを主張することが、人間社会の秩序を守ることにつながるのだと思います。
船越 匿名とか仮名は、芸術家もそうでしたが、それぞれの時代において、権力に立ち向かおうという時に、最初から実名を出すととても太刀打ちできないという場合に使われましたね。世論を盛り上げて新しい勢力をつくっていこうという時には匿名にならざるを得ないという歴史があったわけです。そういう場合は例外的です。政治的意見とか社会的矛盾を解くための意見については、最初のうちは匿名でいいけれど、だんだん議論が熱してきて、それが形を成してくる段階になったら、実名にもどすべきだと考えています。ずっと匿名ということはあり得ないと思います。
林 私は、ある権利団体の著作権研究者に刺されて殺されてしまうかもしれないようなことを平然と言っているので、そろそろ仮名を使わないといけないかなという危機感を感じています(笑)。ところで、実名や仮名の使い方は、放っておくと慣れるのではないかと私は考えています。つまりデフォルトがどちらかということなのですが、もちろん、これからも数で言えば、実名の方が実効上多いと思うのですが、匿名、仮名の比率が今までよりは相当高まると思います。それに対してどのように対応したらいいのでしょうか。人間というのは自然に慣れるのではないかというのが私の発想です。
青柳 私は、匿名によるコミュニケーションに慣れると、人間生活は混乱するというか破綻してしまうと思いますね。現実の世界で面と向かって話をしている場合には、神経生理学的に言うと無意識のうちに大脳新皮質の前頭葉の中に抑制機構(Inhibition System)が起動されているわけです。それは、たとえば、過去にこんなことを言ったら相手が怒ったとか、こういう言い方をしたら納得してもらえたというような、長い間の経験に照らしあわせて会話を円満にもっていこうとか、意見発表も効果的に説得力をもたせようという意図が無意識的に働いて、自然に攻撃的な表現は避けるというシステムです。このシステムは、相手についての視覚的情報、嗅覚的情報、聴覚的情報等の複合的刺激のモウダリティ効果19によって発動されます。
ところが、匿名の場合はもちろんそうなんですが、たとえ実名でもインターネット上でコミュニケーションを行う場合には、そういう情報がありませんから無意識の抑制機構のトリガーが発動しないのです。そのために過度に攻撃的なこともどんどん言ってしまう。メールでは文字を直したり編集できるので、攻撃を非常に効果的に雄弁にやってしまう。読む方も、相手が目の前にいないので、抑制機構の発動なしに読んでしまいます。面と向かって聞けば、若いものの言うことだからと鷹揚に聞き逃せるようなことでも、メールで読むとカーッと頭にきてケンカになってしまうわけです。
林 事象の認識はまったく同じなのですが、実定法的に考えると、それを刑事犯として類型化しエンフォースできるのか、あるいは民法の不法行為のような損害賠償なり差し止めなりができるようになるのかというと、私は法は無力なのではないかと思っています。
青柳 それは過度に攻撃的な表現についてもですか。
林 そうです。ですから、それはそういうものだと思って参加するしか方法はないのではないでしょうか。
船越 自己防衛しかないということですか。
林 いちばん悲観的な見方ということなのかもしれません。事実、人間は対応力、順応力を持っていて、そういうものが当たり前だと思えば、防御しながら読むといったこともできます。さきほどの実験結果も面白かったんですが、そういうことが教室で教えられたり、常識化するということしか防備策はないのではないでしょうか。
青柳 ただ、一人一人がいつもそういう抑制機構を発動させて社会生活にのぞんでいるというのは、人間の例外的なあり方ではなくて、それが本来的なあり方なわけです。むしろ抑制機構が解除されている状況というのは非常に例外的です。
林 私は、アメリカに3年住んでいたからかもしれませんが、ピストルを持ってもいいという国にいると、こちらも持っているかもしれないと思って行動するわけです。社会的にはストレスも高かったし、私はむしろ銃規制法をつくるべきだという論者ですが、規制法をつくってもアメリカでピストルがゼロになるか、刀狩りが100%成功するかというと、成功しないと思っています。日本のように、相当程度規制が進んでいる国でも抜け道があるわけです。私は、全体に悲観論になっているかもしれませんが、著作権という100年の歴史がある法律が、今はほとんど無力になって、禁酒法と同じではないかという議論をしているんです。ひょっとすると、リテラシーというのはそれほど高尚なものではなくて、今のようなものに耐えられる体力ということかもしれないというのが私の感覚です。今回はお二人の意見が一致してしまったので、あえて私が反対の局面に立っているということもなくはありませんが、実効性のある手段というのはそれほどたくさんはないのではないでしょうか。
船越 たしかに、ピストルの問題は慣れかもしれませんし、自己防衛すればいいのかもしれません。しかし、この論法を進めていくと、核抑止力についても同じことが言えます。核兵器よりもさらに強力な兵器ができたとして、それを持つことによって世界が平和になるんだという考え方、つまり、大きな武器を持てば持つほど、世の中は安定するという考え方につながってはいないとは思いますが・・・。
前に触れたローレンツは、動物を見ていて、動物は牙(武器)を発達させればさせるほど、本能的にお互いを殺傷しないようにする抑止力が発達する、武器の発達と抑制力の発達は見合っていると言いました。たしかに、お互いに仲間を殺しあえばその動物は絶滅するだけですから、ケガをさせても殺しませんね。闘いの儀式化といって、片方が唸って、もう一方が負けたと思えばそれですごすごと行ってしまう。そこで闘いは終わってしまいます。人間の場合、一騎打ちの時代にはまだ闘いの儀式が残っていたと思いますが、今やミサイル時代になると、そういうことすらなくなってきた。攻撃力、殺傷能力の強いものをつくったわりには抑制力が強くなっていません。つまり人間にとって抑制力は本能ではない、DNAに組み込まれていないのです。だから、これまでも文化として、人倫とか人道、宗教、道徳、というものをずっと教え続けてきているわけです。本能で抑制できるのであれば、そんなにラクなことはありません。教わらなくても殺さないはずですから。抑制力をどうするかという問題になってくると、人を殺す武器が発達すればするほど抑制力を強める方向にいかなければならないし、抑制力が強まらないのであれば、武器の方を縮小していかなればならないと思います。ですから、慣れの問題もあるかもしれませが、別の考え方もできるだろうと思います。
林 人選がよかったのか悪かったのか、2対1で敗退してしまいました(笑)。私もどうやら経済学に毒されたのかという気がします。経済学者がどう答えるかというと、ソ連が崩壊した理由については、核抑止力をより持った方が強いだろうと思ってやってきたところ、まったく想定しなかった財政力という面でしっぺ返しをくらったという説明をするのだと思います。そういう意味でいくと、私は少し経済学をやりすぎて、なんでも経済学で説明できると思い込んでいるのかもしれません。いずれにしても、少しは違いがあるということが分かってよかったのではないでしょうか。総体としては、船越先生のよくまとまった本を題材にしたので、論点が短時間でよく整理されたのではないかと思います。どうもありがとうございました。
(「特集:21世紀の法制度」は今回で終了します。)
1 ローレンツ・K.『攻撃−悪の自然誌』日高敏隆他訳 みすず書房(1970)
2 ローレンツ・K.『ソロモンの指輪』目高敏隆訳 早川書房(1970)
3 杉山幸丸『子殺しの行動学』北斗出版(1980)
4 ドーキンス・R.『利己的な遺伝子−増補改訂版』日高敏隆他訳 紀伊国屋書店(1991)
5 ゴフマン・E.『集まりの構造』丸木恵祐他訳 誠信書房(1980)
6 ゴフマン・E、『儀礼としての相互行為』広瀬英彦他訳 法政大学出版局(1986)
7 Lawrence Lessig:イエール大学のロースクール卒業。最高裁判所の裁判官の書記を務めた後、シカゴ大学、ハーバード大学を経て、現在、スタンフォード大学にて憲法、契約、サイバースペースの法律などの教鞭をとる。マイクロソフト社の独占禁止法裁判において連邦裁判所に「スペシャルマスター」として任命されたサイバー法の第一人者として注目されている。(邦訳書『CODE』(翔泳社)の著者紹介より)
8 刑法第230条
9 刑法第231条
10 民法第709条
11 文化勲章受賞。東京大学名誉教授、元最高裁判所判事。日本におけるプライバシー研究の先駆者。著書に『憲法 第3版』弘文堂(1995)、『プライバシーの権利』岩波書店(1963)など。
12 Dwyer v. American Express Co.,652 N.E.2d 1351(V APP.1 Dist.1995〕
13 Zeran v. American On1ine,Inc.,958 F.Supp.1124(E.D.N.Y.1997)
14 個人情報保護基本法制に関する大綱」 情報通信技術(IT)戦略本部・個人情報保護法制化委員会(2000年10月)
15 林紘一郎「 d マークの提唱−著作権に代わる“デジタル創作権”の構想」 『GLOCOM Review 』4-4(1999)など。
16 パッケージソフトの代表的な使用許諾契約。契約条項をパッケージの外箱に印刷しておき、ユーザーが事前に検討することを前提に、パッケージを破ると契約が締結されたものとみなす。メーカーとユーザーが個々に契約を結ぶことは事実上困難なので、この方法は一般的に有効と解されている。
17 「個人データ処理に係る個人の保護及び当該データの自由な移動に関する欧州議会及び理事会の指令」ECOMプライバシー問題検討WG訳
18 ジンバルド・P.G. 『現代心理学V』古畑和孝他訳 サイエンス社(1983)
19 Modality効果=Modality Effects/Murdock,B.B.1968。Modality=感覚の一定の様相。複数の異なった相の刺激を同時に知覚すると、単一相の刺激の場合よりも、より強烈にかつより深部にまで到達して認識される。外国語の単語を記憶する場合には、文字を見るだけに頼るよりは、聴くこと、発音すること、書くことを組み合わせる方が認識の度合いは深い。またよく記憶もされるので、再生率も高くなる。