教育と体罰
青柳武彦(主幹研究員)
要約
子供たちに効果的にしつけを行い、かつ社会人としての基本的な約束事を教えこむことは極めて重要なことであるが、最近はそれがあまりうまく行なわれていない徴候が多く現れている。子どもの大脳の神経生理学的な発育程度に応じた、最適の教育手段を通じてこれを行う必要があるが、愛情に裏付けられた「良い体罰」は、極めて有効な教育手段たり得るのである。ただし、体罰を与えるタイミング、程度、事後ケア等について十分に配慮しなければならない。
しかし、日本においては学校教育法によって体罰が一律に禁止されている。そのため教師が体罰についてノウハウを研究したり、それを身につけたりする機会は全くない。そのため「悪い体罰」が後を絶たないという現実がある。早急に一律な体罰禁止を廃止すべきである。
第1章 体罰の一律禁止
学校教育法
現状では「良い体罰」も「悪い体罰」も一律に禁止されている。そもそも「良い体罰」などというものは存在しないという考え方である。学校教育法第11条には次のとおりに定められている。
「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」
さらに1949年8月2日に法務庁(当時)は次の通達を発表している。
「1.用便に行かせなかったり、食事時間が過ぎても教室に留めておくことは肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に違反する。
2.遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせないことはたとえ短時間でも義務教育では許されない。
3.授業時間中、怠けたり、騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない。教室内に立たせる場合には体罰にならない限り懲戒権内として認めてよい。
4.人の物を盗んだり、壊したりした場合など、こらしめる意味で、体罰にならない程度に、放課後残したりしても差し支えない。
5.盗みの場合などその生徒や証人を訊問することはよいが、自白や供述を強制してはならない。
6.遅刻や怠けたことによって掃除当番などの回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。
7.遅刻防止のための合同登校はかまわないが軍事教練的色彩を帯びないように注意すること。」
文部科学省の指導
最近の文部科学省の見解は、文部省初等中等教育局教務関係研究会『教務関係執務ハンドブック』1によると次のとおりである。
「体罰とは、物理的行為によって身体に侵害を加える場合および生徒にとって社会通念上許されない程度の肉体的苦痛を生じさせるものである。ただし、身体に侵害を加える行為がすべて体罰として禁止されるわけではない。傷害を与えない程度に軽く叩くような行為は、父兄が子供に対して懲戒として通常用いる方法であり、校長および教員が単なる怒りに任せたものではない教育的配慮にもとづくものである限り、軽く叩くなどの軽微な身体に対する侵害を加えることも事実上の懲戒として許される。つまり時には、叩くことが最も効果的な教育方法である場合もあり、いわゆる「愛の鞭」として許される程度の軽微な身体への行為ならば行っても差し支えない。しかし、同時に心身の未発達な生徒の人権の保護についてはあくまで慎重を期さねばならない。たとえ教育者としての愛情から出た行為であっても傷害を与えるようなものではなくても、なるべく身体の侵害と受け取られるような行為は避けるように努力することが望ましいといえよう。」
要するに「軽く叩く」程度以上はダメヨ、と言っているわけだ。こんな腰が引けた情態では、教師は迫力をもって叱ることが出来ないから、しつけも何もできたものではないと筆者は思うのだが、どうであろうか。筆者はこうした、子供の人権の誤った尊重が、最近のしつけの全く出来ていない子供たち、倫理観が欠如した子供たち、浮浪者を殴り殺したり、普段は良い子だったのが突然に親をバットで殴り殺したり、わけもないのにバスジャックをしたりする子供たちがたくさん出てきている原因の、全てではないにしても一つではないかと考えている。衰弱した「新しい脳」と、病んだ「古い脳」に支配されてしまっている子供たちを見る思いである。
「新しい脳」と「古い脳」
「新しい脳」とは大脳新皮質を意味し、人間の知性や思考能力を担当している。発生学的にも発育学的にも一番新しく(最後に)形成されるのでこの名前がある。人間は「新しい脳」を使って理性的にものを考え、常に冷静に行動をとる知的存在であると考えられている。少なくとも、そのような姿(新しい脳・人間)を人間の望ましき姿として把握し、それに反するような考え方や行動をするものを反倫理的であるとして排してきた。
「古い脳」とは大脳皮質のうちの新皮質部分を除いた中間部から深部の部分をいう。大脳辺縁系と称し、辺縁皮質の梨状葉、海馬、帯状回、扁桃体、等がある。間脳の一部である視床下部をも含んでいる。「古い脳」には個体維持の基本的な仕組みを維持する機能がある。反射運動、人間の無意識の反応、基本的情動などはすべてこの「古い脳」が担当している分野である。「古い脳」はまた内臓にも働きかける。また間脳の視床下部にも働きかけて自律神経の働きやホルモンの分泌の調整も行う。
最近の神経生理学によれば、人間は大人でも子供でも、常に理性的に考え行動しているように見えても、実は無意識のうちに「古い脳」の大脳辺縁系に支配されてしまっている部分が極めて大きいとのことである。それは倫理的か非倫理的かという問題を超越した人間の自然な存在のありようである。教育と体罰の問題を考える時には、このような視点を併せ持つことが必要である。
体罰はなくならない
体罰は禁止されてはいるが、教育の現場においては体罰に類する行為はかなり行われており、トラブルは後を絶たない。保護者の方にもそれを容認する空気がある。ただし表立って問題になった場合は、法律に明示的に体罰禁止がうたわれていることから、たいてい教師の方が処分されることとなる。
公立学校で、体罰ではないかと問題視されて学校が正式に調査した事件の発生件数は、1998年及び99年にはそれぞれ1010件、990件あった。ほぼ横ばい状態である。私立学校の場合は、これよりもはるかに多いだろう。
教育の現場においては、体罰に断固反対する教師たちが大多数を占めている。中には「徹底的に話しあうべきである」などという、空想的平和主義者みたいなせりふを繰り返す教師もいる。当の教師は、それで効果のあるしつけや教育が出来ているのか甚だ疑問である。
筆者は、決して暴力を容認しているわけでも児童虐待をしても良いといっているわけでもない。不適切な体罰は絶対によくないのである。しかし、教育的指導の手段から、適切な体罰まで除いてしまうのはもっと良くないと考えているものである。もちろん何が適切で何が適切でないかは、非常に難しい問題である。これを解決するためには多くの研究と研修によるノウハウの蓄積が必要なのだ。換言すれば、そういう蓄積がないから不適切な体罰がはびこって後を絶たないのである。「一律な」体罰禁止を廃止しない限り「不適切な」体罰はなくならないのだ。
第2章 体罰の妥当性
人間社会の基本的ルールをどう体得させるか
子供にとって家庭や学校は、将来の社会人として生きてゆくための基本的な約束事を学ぶところであり、決して牧歌的保護を行う聖域ではない。親や教師は、人間社会における基本的な規範を厳しく教え込み、きちんとしたしつけをつけてやるべきであり、そうすることが子供に対する真の愛情である。これを放棄することは、子供の将来に対する責任を放棄することを意味するので、ほとんど犯罪に等しいことである。
ところが、このようなしつけを行ったり基本的な約束事を教え込むのに、説明や説得をもって行なう、すなわち「新しい脳」に働きかけるのは、不可能とまではいわないが神経生理学的及び発達心理学的に見て困難かつ非効率的なのである。なぜならば、多くの場合それは知識や理解力の問題ではなく、感性やほとんど反射的な本能的な判断力の問題だからである。しつけをつけたり、人間社会の基本的な約束事を学ばせたりするために働きかけなければいけないのは、実は「新しい脳」の大脳新皮質ではなく「古い脳」の大脳辺縁系なのだ。
古い脳を鍛える
こどもの「古い脳」にアクセスする為には言葉による論理的説得はほとんど役にたたない。「古い脳」にアクセスする手段は、第一にマルチメディア情報を駆使したイメージ思考を活用すること、及び第二に、親や子、教師と生徒の間の「古い脳」同士の交流を行うことである。それは時に感情的ともいえるほどの裸のぶつかり合いになる。当然、手が出たりしてしまうこともあるに違いない。
「古い脳」に影響を与えることが目的なのだから、感情的になっても良いのだ。むしろ感情的にならないで相手の「古い脳」に影響を与えることは出来ないとさえいってよい。子供たちが教師に向かって、「その反抗的(?!)な目つきは何だ、口惜しかったら殴ってみろよ、すぐ教育委員会にいいつけてやる、お前は首だ」などといって、教師を蹴り上げるなどということが現実に起きている時に、怒りもせずにおめおめと説得に努めるのは決して教育的とはいえない。そのような一方的な関係は実社会では決して赦されないからである。実社会で上司にこんな口をきいたら一辺に首である。本気で怒って容赦なく殴りつけて思い知らせることが、子供の将来のために必要なのだ。
思いっきり殴られると子供は痛いし、精神的にもショックを受けるから大いに傷つく。子供の「新しい脳」はもちろん、そんなことは容認できない。だから不貞腐れてプーッとふくれる。しかし、殴られた痛さに伴う不快感は「古い脳」の扁桃体にちゃんと登録され、帯状回に影響を与えて「今度やるとヤバイから止めよう」と、無意識のうちに抑制の動機づけが生じる。こうしたことの繰り返しの過程で形成されるニューロンのネットワークが、叱られるもとになった行動や考えを担当したニューロンのネットワークと融合一体化して、無意識のうちに抑制機構(Inhibition System)が構築されるのである。
同時に自分の行為や考えがそのようなショックに匹敵するような重大なルール違反なのだということを理屈抜きに体で、つまり「古い脳」で会得するのである。しかし、子供の「新しい脳」は納得しているわけではない。では、納得ベースでの働きかけが可能な、つまり体罰が必要ない程度に精神的能力が成熟するのは何歳頃なのだろうか。
連合野の成熟時期
ニューロンが育つにしたがい、その神経繊維を包む鞘のようなシュヴァン鞘(Schwann's sheath)という組織が出来てくる。髄鞘(ずいしょう)ともいう。成熟期になると神経繊維をいくつもの鞘が並んで巻きついた状態がほぼ全長にわたって続くようになる。これを有髄化といい、ニューロンはシュヴァン鞘が形成されてはじめて十分な機能を果たすことができるといえる。ちなみに有髄化前の神経の信号伝送速度はたったの約1m/秒であるのに比して、有髄化後のそれは約100m/秒である。なんと100倍になるのだ。
そこでシュヴァン鞘を染色することにより、脳の各部分のニューロンの有髄化の程度、すなわち成熟度を測定してみると、「原始脳」の脳幹と小脳が一番早く有髄化することが判る。それから「古い脳」の大脳辺縁系に及び「新しい脳」の大脳新皮質に及んでゆく。大脳新皮質の中でも前頭連合野、頭頂連合野、及び側頭連合野は一番成熟が遅い。だいたい、高校を卒業するか大学新入生の頃でないとこの部分は最も成熟した域には達しない。そのため、この部分を大脳新・新皮質と呼ぶことがあるくらいである。大学時代というのは、まさにこのような高度の精神活動能力の完成期に相当する。青年は突然目の前に開かれる高度の精神世界に感激し、人生を深く思索するようになり、一部の青年は哲学を好むようになる。
前頭連合野は、推理、創造、計画、評価、自制心などの高次の精神的機能に関わっており、大脳辺縁系の、怒り、悲しみ、恐怖などの情動に対して理性的抑制を行っている。したがって、この部位の成熟が遅れたりに損傷があったりすると、すべてのことに我慢がきかなくなり、自発性や意欲がなくなる。また、計画的にものごとを行なったり,一連の行動を順序よく行うことが困難になる。
したがって、人間の高度な判断力、理解力、倫理観に訴える説得は、まだこれらの連合野におけるニューロンの有髄化、つまり成熟化が完成していない高校・中学・小学校の生徒に行っても、無駄とまではいわないが、効果は期待するほど大きくはないといって良い。小中学生と「徹底的に話し合うべきである」などという戦術は、相手の子供たちの能力がまだそこまで発達していないのだから、あまり効果がないと知るべきである。高校の終わり頃、及び大学生くらいの年代になれば「徹底的に話し合う」のは極めて有効である。
石原慎太郎のエッセイ
石原慎太郎東京都知事に「日本よ」というエッセイ2がある。父親の責任についての論議であるから必ずしも体罰論ではないが、本テーマにも共通しているところがあり、共感するので引用しておく。
「動物行動学者の権威コンラッド・ローレンツは、『幼い頃肉体的な苦痛を味わったことのないような子供は、成長して必ず不幸な人間になる』といっているが、それは人間を含めた動物全体の生存に関わる原理であって人間の親だけが子供にそれを強いることを怠るということが許される訳がない。ある年齢に達した子供を、親が強く叱るということは子供にとっては心外だろうと実は、我慢について教える慈悲に近い本当の愛に他ならない。賀川豊彦は、『子供には大人から叱られる権利がある』と記している。キェルケゴールは、『子供が受くべき、最初の感謝すべき教訓、それは両親よりの平手打ちだ』ともいっている。(中略)叱られるということは我慢を強いることであって、我慢を重ねることの出来ぬ子供は心身ともに耐性を欠き、自分をコントロール出来ずに、すぐに切れたり崩れてしまう。」
海外諸国の例
英国は伝統的に体罰を容認している。ディケンズの『デビッド・カッパーフィールド』その他の多くの文学作品において、子供時代に教師から手を鞭で打たれる場面が描写されている。コモンウェルズ諸国も、英国の影響で容認する国が多い。米国は約30州が容認している。これに対し英国以外のヨーロッパ諸国、イスラエル、日本が禁止している。
第3章 体罰の問題点とその克服
体罰の悪いところを列挙してみると次の通りである。すなわち、多くの場合、立場の弱い相手に向けられること、本当は教師の感情的な行動であるにもかかわらず、それが「愛の鞭」という美名で隠されることが多いこと、逆効果となる場合が多いこと、子供の人格の尊厳が著しく傷つけられること、相互の信頼と尊敬を基調とする教育の根本理念に反すること、などが挙げられる。中には体罰を受けた子供が自殺をしてしまったりして大事になったこともある。
これらの問題点はいずれも真実であり、筆者もそれを否定するものではない。体罰は必要な時に、必要な限度で与えるべきものであるが、その実行は容易なものではない。結局は、体罰の効用と体罰の問題点のバランスで考えなくてはならない。体罰を効果的に行うことがどうしても必要であるとなったら、これらの問題点を克服するノウハウを蓄積すべきなのである。
問題点を克服するノウハウ
ところが、日本では体罰は一律に禁止されてしまっているから、「教育的な体罰の与え方」とか「どんな時に体罰を与えるべきか」、「どんな時には体罰は絶対に避けるべきか」、「体罰を行った後の安全配慮義務」などに関する研究会や研修などは全く行われていない。したがって教育の現場にはそういうノウハウの蓄積は全くない。
学校の教師たちは、他の職場におけるサラリーマンに比べて極めて研究に熱心であるといってよいだろう。定期的に、かつ頻繁に研修のスケジュールが正式の勤務の中に組み込まれているし、極めて熱心に教師も参加している。ところが体罰についてのケーススタディや技術についての研修は全く行なわれていない。体罰は一律に非合法であるからだ。
逆説的ではあるが,体罰を容認して初めて体罰の問題点の克服と、その効果的な活用の研究ができるのだ。教師にもノウハウが身につく。そろそろ、学校教育法第11条からは「体罰を加えることはできない」という文言を削除するか、少なくとも「不適切な体罰を加えることはできない」と表現を改めるべきであろう。
第4章 体罰の法環境
国家賠償法には次の通りの規定がある。
第1条
1 国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
2 前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があったときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。
体罰を行った教師に対しては免職、停職、減給、戒告などの行政処分が課されることがある。さらに民事責任として損害賠償請求の追求を受けることになるが、その根拠となるのは冒頭に掲げた学校教育法第11条、民法関連では第709条の「不法行為」、刑法関連では第208条、第204条、第205条の「暴行、傷害、傷害致死」である。刑事責任を問われるのは、上の損害賠償責任の根拠と同じ刑法の条項に基づいて、懲役、罰金、拘留、科料などの刑事罰が課せられる。文部科学省の発表によると、体罰を事由として懲戒処分、訓告・諭旨免職を含めた処分に処せられた教職員の総数は、1998年及び99年にそれぞれ497名、501名であった。
判例
幾つかの判例を見てみよう。いずれも教育界においては有名な事件ばかりである。
●東京都東久留米市中央中学校事件
次の例は、口のきき方が悪かった女生徒に対する体罰事件の判決からの抜粋である。事実問題は次の通りであった。
「被告は、平成6年11月14日午前9時10分ころ、中央中2年2組の教室において、同日の第一時限の道徳の時間に行われた同月4、5日開催の文化発表会のまとめの授業中に、原告ら6名に対し、右(原文縦書き)文化発表会において行ったアンケートの集計を行うよう指示したところ、原告は、被告に対して、「集計しなくていいって言ったじゃない。自分の言ったことに責任もてよ」と反論した。
被告は、同原告の言葉に激昂し、同原告に対し、大声で「もう一回言ってみろ」と怒鳴り、同原告が座っている机を蹴った後、右手平手で同原告の左頬を一回殴った。同原告は、これに対し、被告を凝視したところ、同被告は、同原告に対して「なんだ、その顔は」と言って、更に右手平手で、同原告の左頬を一回殴り、髪の毛を手で鷲づかみに引っ張った。これらの暴行により、同原告は特に怪我を負わなかったが、同原告の衣服には引っ張られて抜けた後であるような髪の毛が数本ついていた。」
これに対して判決は、「教師と生徒という立場からも、また体力的にも、明らかに優位な立場にある教師による授業時間内の感情に任せた生徒に対する暴行であり、およそ教育というに値しない行為である」と断じ、かつ「原告は右体罰によって大きな精神的苦痛を被ったことが認められる」と言っている。そして東京都および東久留米市に連帯して50万円を支払うように命じた。なお、国家賠償法の趣旨からいって当該公務員個人は直接被害者に損害賠償責任を負うものではないが、雇い主である都は、当該教師に対して求償権を行使することになる。
裁判では、さすがに原告による中学の掲示板に謝罪文を掲載する要求、教師と成績評価の変更請求、及び父親への損害賠償請求は斥けられた。しかし、原告側の全面的勝訴である。この判決が全国の教育の現場に与えた影響は大きかった。
現場の教育は、こういうことで成り立つものであろうか。この女生徒は教室で先生に、そのような口をきいてもかまわないと裁判所から保証を受け取ったのであるが、それで有益な教育的効果を得られたのだろうか。それで彼女の社会人としての将来は幸福なのだろうか。裁判所は法を行ったのであって、教育を行ったのではないことに留意しなければならない。
●兵庫県龍野市立揖西西小学校事件
次の例は、小学校6年生が自殺してしまった悲惨な例である。判決によると、事案の概要は次の通りである。(固有名詞を「生徒」に変更)「龍野市立揖西西小学校6年生であった生徒が、平成6年9月9日に担任教師から殴打され、同日中に自宅付近の裏山で首を吊って死亡しているのが発見された。生徒の両親である原告らが、生徒は担任教師による本件殴打行為が引き金となって自殺したものであると主張して、国家賠償法1条1項に基づいて被告龍野市に対して損害賠償を求めた事件である。
本事件には次の三つの争点があったが、裁判所の判断はそれぞれ次のとおりであった。
(1)生徒の自殺と本件殴打行為との間に事実的因果関係があるかについては、「自殺が本件殴打行為に極めて接着した時点で(約1時間後)なされていること、本件殴打行為の他に生徒の自殺の動機となり得る事情が存在しないことなどを総合すると、生徒は本件殴打行為が引き金となって自殺したものと推認することができる」といっている。
(2)生徒の自殺について学校側の責任原因の存否および相当因果関係の有無については、「生徒の自殺による死亡と本件殴打行為との間には相当因果関係があるというべきである」と述べ、さらに「担任教師には、本件殴打行為によって生徒の心身に及ぼした悪影響を除去する上で過失があったことは否定しがたい。そして、担任教師において生徒の精神的衝撃を緩和する努力をしておれば、生徒の自殺を防止することのできた蓋然性の高いことにかんがみれば、右の安全配慮義務違反と生徒の自殺による死亡との間にも相当因果関係があるというべきである」と指摘した。
(3)原告らの損害の有無、数額については、「本件で、生徒に対し、生き続けるよう期待することが生徒にとって酷であったとはいえず、また現に期待されていたというべきであるから、損害の公平な分担という見地から、自殺を選択してしまったこと自体について、生徒が一定の責任を負うべきものとされるのはやむを得ない。したがって、損害の拡大に寄与した生徒の心因的要因(意思的関与の程度)に応じて、その損害額の5割を減額するのが相当である」と述べ、結局請求額の半額である約1900万円及び訴訟費用の半額を支払うように命じた。
上記(2)の争点である教師の安全配慮義務違反の問題は極めて重要である。逆説的な言い方になるが、一律な体罰を禁止しているが故にこのような教育ノウハウが全く蓄積されていないのだ。教師とて人の子であるから、感情に押し流されてしまうこともあるし、過失で手が出てしまうこともあるだろう。その時にどのような行動を取るかが重要なのである。
●茨城県水戸五中事件
体罰容認論的なニュアンスを持つ判例もある。1981年の水戸五中事件として知られる有名な例である。この事件でも、中学2年生がちょっとふざけたことを理由に女教師から体罰を加えられ、8日後に脳内出血を起こして死亡してしまった。ただし脳内出血の原因は外因性のものであるか否かは不明である。もっとも体罰といっても判決によれば「平手および軽く握った右手の拳で頭部を数回軽くたたいたという程度であり、口頭によるそれ(注意)と同一視してよい程度の軽微な身体的侵害にとどまっているので、正当な懲戒権の行使の範囲である」というものである。
一審においては有罪とされたが、東京高裁は体罰と死亡の間の因果関係は認められないとして、原判決を破棄して無罪を言い渡した。判決文3では、体罰について次のように述べている。
「教育上必要な注意を与えるという自覚の上に立ち、また生徒に対してとった行動自体も教師としての節度を著しく逸脱したものとは認められない本件のような場合には、心のなかにわずかに混在した不快の感情の起伏を捕らえ、それを理由にして教育的意図の存在を否定したり、不当に過小評価したりすることは許されないところであるといわなければならない」と述べ、違法性の問題については「教師が生徒を励ましたり、注意したりするときに肩や背中などを軽くたたく程度の身体的接触(スキンシップ)による方法が相互の親近感ないしは一体感を醸成させる効果をもたらすのと同様に、生徒の好ましからざる行状についてたしなめたり、警告したり、叱責したりするときに、単なる身体的接触よりもやや強度の外的刺激(有形力の行使)を生徒の身体に与えることが、注意事項のゆるがせにできない重大さを生徒に強く意識させると共に、教師の生活指導における毅然たる姿勢・考え方ないしは教育的熱意を相手方に感得させることになって、教育上肝要な注意換気行為ないしは覚醒行為として機能し、効果があることも明らかであるから、教育作用をしてその本来の機能と効果を教育の場で十分に発揮させるためには、懲戒の方法・形態としては単なる口頭の説教のみにとどまることなく、そのような方法・形態の懲戒によるだけでは微温的に過ぎて感銘力に欠け、生徒に訴える力に乏しいと認められるときは、教師は必要に応じ生徒に対し一定の限度内で有形力を行使することも許されてよい場合があることを認めるのでなければ、教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがあることも、これまた否定することができない」と述べた。
さらに次のように述べて、現場の教師には教育の実施に必要な裁量権が認められてしかるべきであると述べている。
「同人の本件程度の悪ふざけに対して直ちにその場で機を失することなく前示のような懲戒行為に出た被告人のやり方が生徒に対する生活指導として唯一・最善の方法・形態のものであったか、他にもっと適切な対処の仕方はなかったかについては、必ずしも疑問の余地がないではないが、本来、どのような方法・形態の懲戒のやり方を選ぶかは、平素から生徒に接してその性格、行状、長所・短所等を知り、その正当ぶりを観察している教師が生徒の当該行為に対する処置として適切だと判断して決定するところに任せるのが相当であり、その決定したところが社会通念上著しく妥当を欠くと認められる場合を除いては、教師の自由裁量権によって決すべき範囲内の属する事項と解すべきであるから、仮にその選択した懲戒の方法・形態が生活指導のやり方として唯一・最善のものであったとはいえない場合であったとしても、被告人がとった本件行動の懲戒行為としての当否ないしはその是非の問題については、裁判所としては評価・判断の限りではない。」
つまり、体罰が必ずしも最善の選択であったかどうかは必ずしも明確ではないが、それは現場の教師の裁量権の範囲内であるから、裁判所が評価・判断できる問題ではないというものである。この教師に裁量権を認めた点について、いわゆる進歩的教師や研究者たちから、「教育能力・技術のない教師が野放しになる論理である」との猛烈な批判が沸き起こった4。しかし、それはとんでもない間違いである。裁量権を認めてもらう資格のない教師がいるからといって、裁量権そのものを否定するのでは本末転倒である。教師の教育の方法論に裁量権が一切認められないのであれば、教育能力・技術があっても十分にこれを発揮することができないことになる。教師の個々の生徒に対する教育の方法論に、個別的かつ専門性のあることを認めればこその裁量権である。資格のない教師は、裁量権を制限するどころか辞めていただかないと困るのだ。
ただ、その裁量権の範囲に、違法性の在る体罰までも含めるわけにはゆかないから、結局、問題は当該体罰の違法性の問題に還元される。この判決を下した裁判長は、「合法的な体罰もある」と言っているわけであるから、その範囲内であれば体罰を選択することも裁量権の範囲内であるといっておかしくない。
こうして見てくると、体罰に関する法的環境は必ずしも安定したものではない。「あらゆる身体的侵害が体罰であり、したがって違法である」という考え方もあるし、「正当な懲戒権の範囲にある体罰もある」という考え方も成り立っている。しかし、子供を不当な虐待から守り、しかも教育的効果を期待できる「正しい体罰」についてのノウハウがないままに、現実には体罰が野放しに行われているのが現実である。逆説的な言い方になるが、体罰を解禁して、そのかわりに正当な懲戒権の行使以外のものは厳重に禁止し、体罰の与え方についてのノウハウを蓄積すべきである。さもないと、不当な体罰は根絶することがないだろう。繰り返しになるが、「一律な」体罰禁止を廃止しない限り「不適切な」体罰はなくならない。
体罰ではない行為
最後に念のために付け加えるが、日本弁護士連合では、次のような場合は体罰とはいわないと言っている。「児童、生徒が『いじめ』など生徒間で暴力をふるっているとき、また教師に暴力をふるい、或いは学校建物、器物を暴力で損壊しているときなどで、これを実力で制止する行為は体罰ではない。しかし、『制止』の程度をこえてその機会に『なぐる』『ける』等の行為に及べば体罰となる。但しこの場合には、正当防衛、緊急避難の成立の余地があるのでその考慮が必要となる。」5
1 http://members.tripod.co.jp/ete/monbusho.html 参照
2 産経新聞 2000.7.3朝刊
3 水戸五中事件判決全文 http://members.tripod.co.jp/ete/mito5hanketsu.html
4 「学校教育の現状と法律学の課題」 http://law.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/uneme/school1.html 鹿児島大学法政策学科采女研究室
5 『子どもの人権救済の手引』、日本弁護士連合、1987