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智場、GLOCOM Review、コラム…


 

く・も・ん・通信

 7月に行われたジェノバ・サミットは、世界中から集まった10万人とも20万人ともいわれる“反グローバリズム”の活動家に取り巻かれる中で開催され、過激化する抗議行動の中で、とうとう死者まで出してしまいました。また、世界銀行は、その前月の6月にバルセロナでの開催を予定していた会議をキャンセルして、“安全な”インターネットの上で開くことにしたほどです。

 先日送っていただいた松下政経塾のマンスリー・レポート巻頭に寄せられた、岡田邦彦塾頭のメッセージは、こうした動きを念頭に置きつつ「敢えて、グローバリズムに反論する立場になって」、グローバリズムの問題点を検討したものでした。曰く「人間という“生き物”は情報やモノの移動とは異なり、言語、習慣、生活環境が異なる場所に即座に移動させることはできない。労働力の完全市場をつくるためには、人間が地域に一切執着しないで、物の移動のように流れなければならない。しかし、これは言語、習慣、生活環境が比較的変わらず、人の移動規制のない国内であっても政治的に難しい」。「企業会計や国家会計の中には、自然環境や構成員以外の人々の幸福や、社会不安への影響についての指標がない。目に見える数字を中心に意思決定を迫られる企業や国家にとっては環境保全はもっぱら政治的な理由からしか行われない」。「少なくとも、政府は企業と違い、経済的価値以外の価値体系を総合的に判断して行政を行うことに存在意義がある。そうした総合的判断力の面で、国民から信頼された政府がない以上、経験からも単純な市場経済や、グローバリゼーションがバラ色の未来を約束するとも思えない」。

 確かにその通りでしょう。しかしここでは敢えて、二つの点で「グローバリズム」に賛成する議論をしてみたいと思います。

 第一に、米国のシアトルやブラジルのポルト・アレグレ、イタリアのジェノバなどに世界各地から集まってきた活動家たち自身は、“グローバル”ではない存在、“ローカル”な存在なのでしょうか。とてもそうは思えません。彼らは、インターネットをフルに駆使して、お互いに連絡を取り合ったり、協力や支援の枠組みをつくったりしているのです。ウォール・ストリート・ジャーナルのある記事は、その模様の一端を、次のように描写しています。「Protest.netからリンクの張られている "Rideboard" に行けば、参加者たちがヒッチハイクさせてもらうための申し込みができる。"Summer of Resistance" のページには、主要なすべての政治的・経済的会議の開催場所と日時が示されているばかりか、デモ参加者たちが警察機動隊の大群に尻込みしないようにと鼓舞する記事が掲載されている。さらに警察と衝突した人の後遺症を癒すための "Post-Gothenburg Trauma Healing" へのリンクさえ張られている」。まさに彼らは、アレン・ハモンドとジョナサン・ラッシュがいう“サイバー・アクティビスト”そのものなのです。あるいは、私の言葉で言えば、情報化に伴って大量に出現しつつある“智民”の一部なのです。

 第二に、現在拡大しつつあるグローバルな政治的対立を、“グローバリズム対反グローバリズム”という軸に沿って区分けするのは、たとえ当事者たち自身がそのような言い方をしていたとしても、本当に適切なのでしょうか。『レクサスとオリーブの木』(草思社)の著者であるニューヨーク・タイムズのトマス・フリードマン記者は、冷戦終焉後の国際システムは、“グローバル化体制”に移行したと主張しています。確かに二つの超大国が互いに対峙しつつ世界を管理していた二極構造の国際秩序はすでに崩壊し、それとともに近代文明社会の中で“国家”が果たす役割はさらに一段と変質しました。しかし、そのことは、かつての“国家”に代わって“世界市場”が、いまや世界中の人々の生活の支配者になったこと、国家の“パワー・ポリティクス”の論理に代わって資本の“メガ・コンペティション”の論理が、世界を動かす原動力になったことを、本当に意味しているのでしょうか。私は、そうではないと思います。

 実は、20世紀の後半以来、国家化や企業化を超えるというか、それに付加される新しい社会変化の流れが起こっています。それが知的エンパワーメントに支えられた智業や智民の台頭をもたらしている情報化の流れにほかなりません。智業や智民は、インターネットに代表される“地球智場”を舞台として、相互の交流と共働を通じて、自分たちが掲げる目標の実現をめざして、グローバルに活動するのです。こうした流れこそが、現代の“グローバリゼーション”の中心的な流れです。それに対比して言えば、国際社会を舞台とする近代主権国家の活動は“国際化”という言葉で、世界市場を舞台とする近代産業企業の活動は“世界化”という言葉で特徴づけるほうが、より適切でしょう。広域化・普遍化をめざす人間の活動が、国際化から世界化へ、そして地球化へとその具体的な様相を変えていく過程は、ジェイン・ジェイコブズがその近著『経済の本質』(日本経済新聞社)の中で解き明かしている“発展”過程の一般的な特色に、よく合致しています。

 私は、“地球化=グローバリゼーション”という言葉は、地球智場を舞台として活動する近代情報智業の台頭を特徴づけるために保留しておきたいと思います。この意味でのグローバリゼーションは、自然環境の要因や人々の言語・習慣・生活環境の違いを無視するものではないはずです。むしろ、それらの要因を正面から考慮したうえで、人々の、さらには人間と自然がグローバルに取り結び持続していくことのできる新しい関係を構築していこうとするでしょう。そこでは、闘争や競争よりは共働が、より重視されるようになるはずです。そのことが正しく理解されれば、現在ますます激化の一途を辿っているかに見えるグローバルな政治的対立は、基本的には解消する方向に向かうと思われます。

公文俊平

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