グローバリゼーションと文化政策
岡本真佐子(政策研究大学院大学助教授)
前田充浩(政策研究大学院大学助教授/GLOCOM客員研究員)
山内康英(GLOCOM主幹研究員)
山内 1970年代以降、グローバリゼーション、相互依存関係の進化、ボーダーレスエコノミーなど、国際社会の相互依存関係が深まるにつれて、国家という地理的、民族的な「境界性」を特長とする主体の変質が、いろいろなところで観察されるようになってきました。他方で国家が情報や知識を操作することによって、国際社会でより優位に立とうとする活動は、むしろ活発になっているような気もします。実際に、「エシュロン」とか「カーニボー」という、インターネットの情報を傍受して、政治的に利用しようという動きも出ているわけです。考えてみれば戦略的な情報利用にしても、国家というものの境界を成す重要な要素としての文化、社会的な統合の観念、あるいはイデオロギーといったものを守り、対外的にアピールしようという活動にしても、それは情報技術の発達とともに進歩してきたわけです。
このような人々の観念やイデオロギー、思想や知識の中に、国家がどのような形で踏み込んでいくのか、その在り方はグローバリゼーションの進展のなかでどのように変わっていくのかということは、情報社会学の大きなテーマになるだろうと思います。たとえば、相互依存が深まるにつれて、さまざまな主体が思想的に干渉したり、情報を操作しようとする動きが強まってくるだろう。それに対して、国家が一定の役割を果たそうとする動きは、依然として続くのではないかという考えを持っているのですが、これについて、ご専門の立場からどのようにお考えでしょうか?
情報に説得力を与えるための取り組み
岡本 非常に難しい、大きな質問だと思います。その問題について、個人的な予測をお話ししても、説得力のある話にはなりませんので、文化政策を研究しているなかで、少なくともいまの段階で考えられること、各国の動きからこういうことが起こってきているのではないかと私が理解していることについて、何点かお答えしたいと思います。
情報化が進むに従って、情報というものが持つ意味と重要性が大きくなりますから、それに国がより積極的にかかわろうとしていることは確かだと思います。しかし、文化政策という観点からすれば、関与を強めることと「コントロール」とは一応切り離して考えたほうがよいと思います。というのも、今日の世界において情報そのものの置かれている状況が、大きく変わってきているからです。つまり、ある情報を、ある主体が占有できるのかというとそうではないですし、一方的に情報を流すことによって、相手がそれを説得力があると受け止めて動いてくれるのかというと、そのような状況はまったく期待できません。なぜなら、情報の発信源を、いままでは国家が占有してコントロールできましたし、受け手の側はそのチャネルしかないので、それを信じざるを得ない、動かざるを得なかった。しかし、現在は、ある情報が本当に信憑性があり、説得力があるかどうかを判断するための情報を、受け手がすでに豊富に持っているわけです。情報をコントロールするというよりは、いかに情報を相手に伝え切るか、あるいは何らかの発信内容が説得力を持って受け止められるような環境をどうつくるのかということのほうに、ウエイトが移ってきていると思います。
山内 「説得」ということが鍵になるわけですか。
岡本 そう思います。
前田 情報だけを見るのではなくて、文脈としてとらえる方法論を確立しなければいけないということですね。
岡本 そうです。情報というものが、流せば必ずしも届くものでも、また届いてもその通りだと了解されるものでもなくなっています。国家は、情報をより重要だと考え、より積極的に関与してきていますが、それは「コントロール」がすでにできないという前提に立って、関与しているように思います。
山内 実例はありますか。
岡本 イギリスの例ですが、BSEが問題になったとき、イギリスでの狂牛病対策は非常に混乱しました。そのとき、いかに過程を明らかにしてはっきりと情報を流しても、イギリスの科学に対する信頼性が低かったために、他のヨーロッパ諸国に信頼してもらえなかった。また、イギリス国民も安全であると思ってくれなかったという強い反省があります。そのため、ブリティッシュ・カウンシルの科学担当セクションは、今後は情報開示をもっと徹底的にやって、日ごろ馴染みのない専門的な病気の問題であっても、いかに広くそれを理解してもらうかということと同時に、イギリスの科学のレベルの高さを、どうやって他国にアピールできるかが勝負だと言っています。これは、狂牛病に限らず、何か次に問題が起きたときに非常にポジティブに働きます。イギリスは、これだけのレベルの科学を持ち、これだけの対応能力を持っているから安心だという理解が浸透していれば、それが次に何かが起こったときにポジティブな説得力を持つだろう、と考え、そういう取り組みをいま始めています。その点、日本政府の今回の対応は不可思議というか、問題がありそうです。
山内 そういう意味では、従来、対外的に情報を提供してきた文化機関、たとえばドイツのゲーテ・インスティテュートの働きも変わってきていると考えていいのでしょうか。
岡本 そう思います。ドイツはナチス政権時代の失敗がありますから、情報に対しては慎重を期しています。いまの文化活動において発信に努めているというのは、「ドイツの文化」ではなくて「ドイツのさまざまな文化」、"not German culture but cultures in Germany" という言い方をしていますね。
山内 cultures と複数になるわけですか。
岡本 そうです。
前田 ドイツに入っているイスラム文化なども含まれますか?
岡本 はい。ムスリムの多くはトルコから来ているので、トルコ文化は代表的なものですし、東欧、中欧、ロシアからの移民の文化もあります。ヨーロッパというのは地続きで、歴史的にもさまざまな交流がありますから、それらが多様な文化を形づくってきている部分もあります。従来ドイツ文化というと外からは一枚岩のように見られがちですが、それこそ領邦国家でしたから、地域ごとに文化が非常に違います。ミュンヘンの文化、あるいは北方の文化と、きわめて多様で、異なっていると言ってもかまわない。地理的な交流の結果としての多様性も、歴史的交渉の結果としての多様性も、とにかくそれらが集まったものがドイツにおける今日の文化をつくっているのだというわけで、その現状を発信しようということです。
前田 グローバリゼーションとICT(Information-Communications Technology)技術の発達によって、国民国家の国境に応じた文化というものを考えることが困難になりつつあります。したがって、おっしゃる通り、ドイツの領域内にはさまざまな文化のごったまぜ状態が生じているのでしょう。それではゲーテ・インスティテュートは、そのようなごったまぜ状態を一つのシステムとしてとらえ、それをいわばメタ文化と見ていこうとしているということでしょうか。
岡本 「システム」という言い方は、おそらく彼らの考えているものよりも、やや統合されすぎているように思います。従来の発信は、「ドイツ文化というものはこうあるべきだ」というような、ほとんどイデオロギーに近いような了解をそのままプロパガンダとして出すというやり方でした。それに対し、現状は、さまざまなものがさまざまな動きをしていて、コントロール不可能なわけです。その現状を、ドイツというものを構成している文化の要素の中に、どのくらい多様なものがあるのか、また「多様性」が持っている問題点も含めて、ありのままを示すということです。
ゲーテ・インスティテュートの場合、情報の説得力という点で私が非常に面白かったのは、ポジティブな情報だけを流すということは、結果的には信憑性を損なうと考えていることです。ドイツは、民族間の問題など、国内に非常に難しい問題をたくさん抱えていて、解決の目処が立っていないものもあります。しかし、そのような現状について、きわめてオープンにさらけ出す。ゲーテの活動資金のほとんどは連邦政府から出ていますが、NGO的な性格を持つ、私的文化機関という位置づけです。ただ少なくとも誰が見てもドイツを代表するような文化機関が、ドイツにとって都合の悪いことを、白日のもとにさらして議論する。それをやっていることで、ドイツという社会が、いかに民主的で開かれているのかということを、相手に伝えることができる。それがひいては、ドイツが "cultures in Germany" と言ったときも、その多様性について、それが単なるプロパガンダとかイメージづくりではないという、そういう説得力を与えるというように考えているわけです。
各国の対外文化機関の動き
山内 フランスの例はどうですか。
岡本 フランスの場合は、まだ十分な調査ができていないので、これは、あくまでも私の個人的な印象にとどまるのですが、グローバル化の中でのフランスというものの位置づけ直しに、ドイツやイギリスに比べてそれほど積極的ではないように思います。
なぜ、情報の説得力を増さなければならないかというと、現実の問題として、グローバル化が進むなかで、同じフィールドにおいて同じパイを取り合わざるを得ない、そういう状況があるからです。同じパイを取り合っている限りは、同じ土台で情報戦をしなければならない。情報化時代に互いに情報を隠し通すことはできませんから、イギリスに関する情報をドイツは知っているし、ドイツの側の情報もイギリスは知っています。したがって、相手を出し抜いてやろうとか、一方的に自分の情報だけを出して仕切ってやろうとしても無理だということも、すでにお互いにわかっています。そこで、場合によっては、むしろ協力体制をとるわけです。たとえば、連合してEUとしての力を強められるところでは協調してやる。しかし、そのなかで水面下でではありますが、自分の強みについては相手には渡さないということです。ところが、フランスは、そのあたり、グローバル化の中で協調しながらいかに自分を発信するのかという視点が、やや弱いように思います。ですから、同じように協調体制と言いながら、常にフランスだけが勝手な行動をするという苦情を、ドイツやイギリスの人からよく聞きますね。
山内 それは、人間の関心というパイをどのように取るのかということで、一種の棲み分けが行われているということでしょうか。
岡本 そう言ってもいいかもしれません。それを目指しているとまで強くは言えないのですが、パイが限られている以上、お互いが傷つかないようにしようと思えば、自らの強いところでがんばるという以外に方策がないのです。たとえば、シンガポールで人材を取り合うというときに、ドイツの場合は、イギリスが旧宗主国として、あらゆる社会層に太いパイプを持っているということを突破するために、自分はビジネスリンクを使うのだ、ということを非常にはっきりと意識しています。ビジネスを通してドイツに関心を持ってもらう。したがってその場合は、ゲーテ・インスティテュートであるとか、もうすぐ出てくる「アカデミック・エクスチェンジ・サービス(DAAD)」では、企業との関係を非常に密接に持つようにしています。イギリスの現状を見たうえで、ドイツの強みを出しているやり方だろうと思います。
前田 お話を強引に情報社会学の用語に翻訳し直してみると、こういうことでしょうか。現在では、各国民国家は、世界の各地において、自国の文化の説得力を増大させようとする智のゲームを展開している。このゲームにおいては、コラボレーションの重要性など、智のゲームの本質を理解したプレーヤが勝利を収めることになる。
山内 アメリカはどうですか。
岡本 アメリカについては、まだほとんど研究が及んでいませんのではっきりわかりません。ただ、2000年、アメリカの対外文化機関であるUSIS(United Stated Information Service)を国務省の下に直接入れました。これがどういう判断で行われたのかということについては、まだ分析ができていないのでわからないのですが、これには、イギリスやドイツも非常に注目しています。なぜなら、ブリティッシュ・カウンシルやゲーテ・インスティテュートが動きやすい理由の一つは、政府からの「独立」にあるからです。文化活動をより自由に行うためには、ファンドという意味では国家のサポートは必要ですが、直接機構として中に入ってしまうと、国家の色合いが強くなりすぎるわけです。国家について都合の悪いことは扱えないとか、さまざまにイデオロジカルな色がつく、ないしはそのように見られてしまうことになります。なぜ、アメリカが、このタイミングでUSISを国務省の下に入れたのかというのは、非常に興味ある問題だと思います。
山内 冷戦時代には、Radio Free EuropeやRadio Libertyなど、非常に大きな予算を取って自由に活動を行っていたわけですが、東西対立の終結に伴い、このような対敵報活動全般を整理して、国内的なアカウンタリビリティを強化するという意味もあって、国務省の下に入れたのではないか、という解釈はどうですか?
岡本 私のほうはいまのところ調査をしていないのでわかりませんが、おっしゃるような事情があるのかもしれません。
山内 中国はどうでしょうか?
岡本 すべてが共産党の下にあるものですから、そもそも文化機関というものが、政治の枠から出るということは考えられないわけで、文化機関という形で研究することが機構的に難しいのです。ただ、話のレベルが変わってくるので直接関係ないかもしれませんが、教育のシステムで、フランスのシステムと非常に近いものがあります。たとえば、私たちが緊密に関係を持っている中国社会科学院は、他の大学と同じように文部省の下にあるのではなく、直接、国務院の下にあって、文部省と同じレベルに位置しています。研究体制も約5,000人の研究員を抱えていて、諸外国との共同研究をかなりやっています。日本が思っている以上にリベラルな考え方の人々が多く、しかも、それが他の大学などの研究機関よりももう一段上にあるので、発言力や影響力も大きい。彼らが何かを動かそうとしたときには、ものすごい速さで動きます。ですから、将来文化的に中国が動いていくと判断したときに、非常に速い動きが出てくると思います。
山内 ロシアはどうですか。
岡本 これは、リサーチをしていないのでわかりません。
山内 日本はどうでしょうか。
岡本 日本の代表的な文化機関というと、国際交流基金ということになります。
山内 国際交流基金だけですか?
岡本 他にないですね。そのように認められているかどうかは別として、それ以外に公的な位置づけを持っている文化機関はありませんから。
山内 その活動を率直にどのように評価されますか?
岡本 まず、位置づけからして、外務省と文化庁との綱引きの中で身動きがとれない。国際交流基金というのは、交流、つまり私たちの位置づけでは対外文化政策を扱うわけで、対外的な文化の機関というものが、グローバル化の時代において、どのような役割を果たす必要があるのか、ということを考えると、その能力や権限、リソースがあるのかどうかですね。
まず、オフィスの数ですが、現在世界で18です。そのうちセンターといえるのはパリ、ローマ、ケルンの三つだけ、そのなかで評価が高いのは磯村尚徳館長のパリ日本文化会館のみ、あそこだけが好評です。あとの事務所は行っても入れてもらえないくらいですから、そもそも存在しているということが現地の人にもわかりませんし、事務所のほうにも存在をアピールするつもりがあるのかどうか…。たとえば、ブリティッシュ・カウンシルですと、かなり数に変動はありますが、110カ国に260くらいのオフィスがあります。大きいところになると一つのセンターで150〜180人が働いていますから、規模が圧倒的に違います。ゲーテ・インスティテュートは、現在再編の過程にあって、160近くあったオフィスをいったん閉めて、アジアのほうで開け始めているので、だいたい120〜130の間だと思います。旧西欧において「ドイツ、ドイツ」と言う必要はもうないということで、そちらを縮小して旧東欧やアジアのほうに移ってきています。少なくとも国際交流基金の18というのはあんまりだと思いますが、しかしこれは、ここにもっと資金を投入すればよい、という問題ではまったくないと思います。
なぜ国が文化政策を重視するのか
前田 そうすると、こういうことでしょうか。文化政策の戦略には、ドイツ型、フランス型、日本型、アメリカ型、中国型など、さまざまな戦略があり得る。どのような戦略になるかは、文化政策担当の当局の態様、政府の関与のあり方など、国内の諸制度との補完性によって決定する。一方で、このように戦略の内容は異なるものの、同じ世界の「文化市場」で説得力という同一の価値を巡って競争を展開している、と。そうすると、これは、経済における競争と似ていますね。たとえば製造業では、労使慣行等諸制度との補完性、歴史的経路依存性等によって日本型、アメリカ型、ドイツ型などそれぞれ異なった戦略が成立しながら、同時に国際「経済市場」において、たとえば自動車という同一の財の販売を巡って競争している、という意味で。
山内 前田さんのいまの質問は、こう言い換えられるのではないでしょうか。つまり、国家が国際社会で競争的に説得活動をしていく根源的な理由は何でしょうか。
岡本 なぜそういうことをやらなければならないか、ということですね。私はいろいろあると思いますが、まず、グローバル化は放っておいても進んでいくわけで、そうすると、たとえば、有能な人材に自国に来てもらって研究をしてもらい、レベルをあげるということをやっていかないと生き残れないということがあると思います。もうひとつ、人の動きや交流は、多様性を増すと言えば聞こえはいいですが、同時に非常に大きな問題が生じています。紛争や戦争というのは、その非常にハードな部分です。それが引き起こすマイナス分というのは、起きてから何とかしようというよりは、事前に手を打っておいたほうが、やはりエネルギーとしても、コストとしてもいいわけです。少なくとも、グローバル化が引き起こしている世界の現実というものに対する了解があるから、各国が文化戦略、というか文化政策を非常に重視してきているのではないでしょうか。
山内 重視してきているのですか。
岡本 明らかに重視してきています。
山内 最初におっしゃったのは、ある意味で経済的機能主義、次におっしゃったのは、紛争の未然防止という政治的機能主義に立った説得の理由づけだと思うのですが、たとえば文化、つまり国家における説得の体系というのは、それ自体が外に向かって説得を広げていくという内在的な力を持つとか、いまは、国際社会のグローバリゼーションの中で、説得のゲームの時代に移ったと言えるのかとか、こういった点はどうですか? また、行動の単位はいろいろと考えられると思いますが、国際社会においては国民国家という主体が選ばれている理由は何でしょうか。どうですか。
岡本 経済機能主義、紛争解決の政治機能主義というのはとても面白いのですが、少なくとも私が文化政策を見るときに、文化というものが人間の活動の総体である以上は、経済とか紛争解決、これも非常に広い意味では、人間活動としての文化だと考えているわけです。ある総合的なビジョンを持った文化の戦略を立てるということは、そのなかに、経済機能主義、紛争解決の機能主義といったものそれぞれを、どのようなバランスで位置づけるのかについて考えるということだと思います。
山内 文化というのは、その文化を持つ集団自体が安定化するために、外に向かっての説得活動を行うという作用を根源的に持つということですか。
岡本 そうではありません。いま言った、経済の機能主義、紛争の機能主義というのは、現象を概念的に分けているわけです。紛争解決のみを対象にして政策を練っていっても、そのために経済が悪くなるとだめなんです。逆に、経済の問題だけを最大化することを考えると、紛争を解決できないという相互連関を持っていますから、どれをどのようにすればいいのかというバランスの問題になるわけです。つまり、当然紛争は避けなければならないし、経済においては、少なくとも下がるよりは上がるほうがいいに決まっていますが、相互のバランスの中で、世界が地球社会になってきている以上、どういう社会を目指す必要があるのかというビジョンが必要になっています。当然いくつものビジョンがあり得ると思いますが、いずれにせよ、発信されたビジョンというものに対して、いかに賛同と協力を得られるのか、そこが、経済、紛争という個別の課題を超えた全体性として非常に大きな力、重要性を持っている時代ではないかということです。
情報調整機関としての国家あるいは連合体
山内 文化なり、ある集団の生活が、説得のための活動を行う場合、国民国家の役割は今後どのようになっていくとお考えですか?
岡本 少なくとも、国家の調整機能が要らなくなってしまうということはあり得ないと思います。情報は四方八方に自由に流れますし、「コントロール」する必要はないにしても、情報が人々の生活全体の底上げに寄与するような形で共有されるような環境をつくることに、国家ないし公的なセクターがかかわっていくことが必要だと思います。
山内 国民国家というシステムは、そのための手段として過去、現在、未来と考えた場合に、どのような傾向則を持っていますか。
岡本 これは地域によって違います。たとえばイギリス、ドイツ、フランスでは明らかに国家主体で動いていますし、それが非常によく機能しています。ただし、インドやスリランカ、小さな島国の小国を見ている限り、どれぐらい一国民国家というシステムで動けるのかというと、相当条件が違うように思います。これは、国民国家が存続するのかどうかということもありますが、そもそもその地域において国民国家がどういう状況にあるのかということに、相当拘束されてくるのではないでしょうか。
山内 具体的にいまおっしゃったような地域では、どこが主体になっていますか。
岡本 都市連合ですとか、小さな国の連合体をつくるような動きもあります。これは、たとえばヨーロッパでも、イギリス、フランス、ドイツという大国はそのままでできますけれど、ポーランドなどは、それ以外の中欧諸国と結んで、一つの文化機関のようなものをつくっていこうという動きを示しています。北欧もやはり自国だけでは弱い。それで、これは情報を活用しているのですが、情報ネットワーク上の情報機関のようなものをつくっている。確かフィンランドがイニシアティブをとっていると聞きました。実は、これは今回行って調べてくる予定だったのですが、アフガンの件で行けませんでした。そのように、一国では財力も他のリソースもないといった場合には、情報ネットワークでもって文化政策を一緒にやっていこうということもあるわけです。
文化政策におけるインターネットの役割
山内 いまのお話は、今後の国際的な説得活動について大変示唆に富んでいると思います。情報提供を説得という点から考えた場合、インターネットをどうみるのかということですが、文化政策の手段として、インターネットは使えるのでしょうか。また、これまでの文化政策の手段と比べてどこが違うのでしょうか。また、日本が国際的な説得活動の劣勢を挽回するために、インターネットを使うことは可能でしょうか?
岡本 インターネットの重要性は、言うまでもないことだと思います。
山内 文化政策としてですか?
岡本 そうです。当然、各国の文化機関も、ものすごく力を入れてネット活動に入っていますし、初歩的な話ですが魅力的なサイトでなければならないということで、そのためにあらゆる力を投入しています。サイトのデザイン、そのサイトからどのくらい多くのサイトに飛べるか、また飛びやすさについて、これはイギリスでたまたま耳にしたのですが、サイトを開けるときに、人間の脳の構造というか志向、ロジックがありますから、それに合わせて一体、どの人がどういうルートでサイトを開けていくようになるか、そういうところまで考えていると聞きました。
山内 それは、ブリティッシュ・カウンシルのホームページですか。
岡本 そうです。まだサイトに反映されるというところまでは行っていませんが。いまブリティッシュ・カウンシルは、ロンドンとマンチェスターに二つ本部があって、マンチェスターの人員の多くは、この情報セクションにいます。サイトの中身はもちろん重要ですが、アクセスする人たちのレベルはさまざまですから、情報を流せばわかるという態度ではだめだと考えており、いかなる学術レベルの人でもわかりやすいように、明快に書くということに非常に力を注いでいます。この点に関してイギリスはずいぶん進んでいると思います。
しかし、もう一つ情報化時代の物理的プロセスという重要な問題があります。ブリティッシュ・カウンシルの従来の最大の意味というのは、ローカルなプレゼンスだったわけです。情報化時代だからインターネットでどんどんやっていくということになると、自分の存在意義は何だということになる。これは、ブリティッシュ・カウンシルの中でも大きな議論になったことですが、情報に取り組めば取り組むだけ、情報は流せば伝わるものではないということが次第にはっきりわかってきたわけです。いかに働きかけたい相手に到達するのかというときに、インターネットはもちろん一つのツールです。しかし、それが、自分が思っていることをそのまま伝えられるのかというとそうではないし、ローカルにはローカルなコンテクストがあって、それに基づいて情報が理解されてしまいます。また、戦争になれば物理的にアプローチできないわけですし、そうでなくても貧しい人は情報にアクセスできないという、社会的、文化的な問題があります。そこをクリアするには、実は本当にローカルなプレゼンスしかないということです。ですから、インターネットというものを、より積極的に、自分に有利に使おうと思えば、それに見合うだけのローカルなプレゼンスがなければだめだということで、相互補完的に各地のオフィスの存在意義が強くなってきています。
前田 情報社会学の研究の中では、ICTの発達によって、従来は独自の文化に関する情報発信力が低かったさまざまな主体の情報的、文化的な発信力が増大し、国民国家のそれを凌駕していくだろう、という考え方があります。環境問題などに関するNPOの活躍にはすでに見るべきものがあり、また今後は地域レベルの動きも見逃せないと考えられます。
山内 東欧生まれの投資家であるジョージ・ソロス氏が、「ソロス・ファンデーション」をつくって、インターネットのアクセスポイントを旧社会主義圏にある大学などに寄付しています。それは「開かれた社会」を旧東側諸国に定着させるための手段としてインターネットを使おうということだそうです。つまり、従来は個人ではとてもできなかったような、ある社会的変化を非可逆的なものにするということが、個人の力で可能な射程に入ってきたということです。これは、インターネットによって、個人のエンパワーメントが行われたということだと思うのですが、そうなってくると、従来の国家とか都市連合とはまた違ったレベルのエンパワーされた個人というものが、国際社会の文化政策や情報政策に出てくるのではないかと思います。
そこで二つ質問ですが、一つはインターネットによって社会の変化を導くということはいったい可能なのでしょうか。二つめは、従来の文化政策とは違う主体として個人がそれに関与することは可能でしょうか。つまり、ビンラディンが衛星放送を使ってアメリカに対抗しているように、超強力化個人*1というものが、国際社会の文化政策の中に出てくるということはあるのでしょうか。
岡本 まず、一つめの質問ですが、NGOの連携であるとか、国境を越えて集団が形成されるなど、すでに起きている現象だと思います。
山内 それは文化人類学や文化政策を研究されて、いろいろなフィールドに行かれた実感というわけですね。
岡本 経験というのは限られていますから、それだけではありませんが。実際に国際会議に対する抗議行動を見ていても、それがどのくらいの人を動かす力があるのかということは一目瞭然です。
グローバル化による文化の一極化と多極化
山内 二つめのインターネットを利用することで、個人あるいは集団が、社会を内部からあるいは外部から一定の方向に動かすことができるのか、ということについてはどうですか?
岡本 動きはするでしょうが、意図した通りに動くわけではない、ということもまた言えると思います。たとえば、イギリスの場合、インターネットに限りませんが、さまざまな技術が安くなったり、利用可能になったりしたことで、いわゆるエリート層に限らずいろいろな人が発信の力を持ちました。これはサッチャー政権のときですが、サッチャー氏は、「社会」に頼らない自由な自立した個人というものが確立することを重視しましたが、いろいろな人が自分で技術を使って音楽をつくったり、発信性を高めたりすることは、少なくとも個人の自立にとってマイナスではないと考えていたようです。もちろん、そういう面はありましたし、イギリスのある意味でマルチカルチュラルないい面が出てきたということはあります。しかし同時に、インターネットを使うことによって、古いコミュニティの価値を再確認してしまい、コミュニティ回帰といいますか、非常に古い形でのトラディショナリズムというものが出てきてしまった面もあるわけです。
山内 具体的にはどういうことですか?
岡本 たとえば、下町の、かなりラディカルなフーリガンのような人たちが、自分たちでそれぞれコミュニケーションがとれるようになったことで、自立した個人というよりはコミュニティ再発見に向かい、自由な経済活動はこのような「共同体」を掘り崩すということで反発を強めていったわけです。これは、少なくともサッチャー氏が考えていた方向とは全然違っていました。インターネットが社会を動かし、今まで機会のなかった人たちに発信の機会とツールを与える、それはその通りですが、その結果がどちらに出てくるのかは、思っている以上に読みにくいです。
前田 シアトルの闘い、ジェノバの闘い、イェーテボリの闘いといった最近の反グローバリゼーションの動きを、どのように分析しますか?
岡本 反グローバリズムというと、個人的には、彼らが闘っている対象がいまひとつはっきりしないということがあります。グローバリズムというのは、それぞれローカルな文脈で非常に多様な顔を見せます。たとえばアラブ諸国の場合、経済的な格差というのは、アラブ社会自体の中で王族と一般人との圧倒的な経済格差といった形で存在します。ところが、運動はそこに向かわないで、何か抽象的なグローバル企業だとかに向かってしまう。それはどういうことなのだろうかと。それからもう一つ、反グローバル化と言ったときに見えなくなってしまうものがあります。つまりグローバル化は、一極化と同時に多極化を明らかにつくっているわけですが、すべて反グローバリズムというと一極化に対抗するというように読まれがちです。しかし、日本の現代文化、アニメだとかがふらふらとアジアの中に浮遊していって、非常に好意的な扱いを受けるというのは、やはりヨーロッパ文化、アメリカ文化に対して、日本の文化という一つの極が受け入れられていることだし、グローバル化というのは、一方で多極化ももたらしたということは正当に評価したほうがいいと思います。「反グローバリゼーション」と言ってしまうと、それが見えにくくなるという危険があると思います。
日本文化のビジョンをどうつくるのか
前田 説得力を増すための競争が展開されるようになってきて、かつその競争が世の中で重要になってきた、ということは、情報社会学の見方と符合するものです。そこでわれわれの関心は、どうすれば説得力を増すための競争を行う主体をエンパワーできるか、ということです。そのためには、まずはこの競争を中心となって展開する主体を見極める必要があります。岡本さんのお話では、日本の政府関係機関は、ゲーテ・インスティテュートやブリティッシュ・カウンシルに比べると非常に弱体だということでした。では国際交流基金の予算を10倍に増やせばよいのか。国際交流基金でも駄目ならば内閣府直属の新しい特殊法人をつくって莫大な予算を投入して、世界中に100カ所のオフィスをつくればよいのか。それとも、超大個人とか、ローカル・コミュニティの世界に対する情報発信を支援すべきなのか。悩ましいところですが、いかがでしょうか。
岡本 イギリスとドイツでなぜやり方が違うかというと、それは歴史が違う、それぞれの戦争の記憶であるとか経験が違うからで、ドイツ、イギリス、フランスは全然違った体系をとらざるを得ないわけです。前田さんのおっしゃるエンパワーしていく対象が何か、ですが、その対象を特定するときに、日本の社会の特徴、公的なものに対する民の反応であるとか、あるいは企業というものの強みとか、一体われわれの社会が総体としてどこに強みを持っているのか、どこを中心にどのような統合的なビジョンを描けば最もよくまとまっていくのか、それをまず明らかにして、どこをエンパワーしていくかを考えるのが順番としては妥当なのではないかと思います。ただし、少なくとも機構として、とにかくローカルなプレゼンスをもって受発信をすること、特に政治的な色を持たないポイントをたくさん持つこと、私はそれが絶対に必要だと思います。それを国がやるのか、官・民・企業・学が一体となってやるのか、それは議論が開かれているべきものだと思います。しかし、少なくともみんなが勝手に乗り合わせているのではなくて、一つのビジョンの中で、日本の社会全体にとって有効なシステムとして前線になる機関をつくり、全世界的に展開していく。これはお金の問題もありますが、ぜひ検討する必要があると思っています。
山内 大変面白いお話ですが、さて、岡本先生の今後の研究の関心は、どのような方向に向かうのでしょうか?
岡本 いまは、文化政策の中で喫緊と思われ、なおかつ弱いと私が思っている対外文化政策に、ほとんどのエネルギーを集中させています。
山内 それは、日本の文化政策の弱みを際立たせるために外国を調べているということですか。
岡本 弱いも強いも、日本にはないような気がします。(笑)
山内 手厳しいですね。(笑)
文化戦略が世界規模で変化している
岡本 諸外国の文化機関が何をやっているのかというよりは、それらがやっていることがどう変わっているのかということのほうに、むしろ関心があります。近年において、文化政策を大きく変えてきているのは、なぜなのか。どういう世界認識、現状認識に基づいて変えてきているのか。それこそ世界規模の、政治も経済も含めて文化による戦略、政策というものがどれだけ重要になってきているのかという大きな認識の変化があって、それに基づいて各国の対外文化政策が変わってきているわけです。だから、少なくともどう変化してきているのかを知りたい。また、それが、イギリスやドイツがこうやっているから日本も、という単純な議論にならないために、日本が置かれているアジアの中での地位や歴史的条件を、あくまでもローカルな文脈の中で徹底的に理解し、そのなかで日本にとって最も妥当だと思われる対外文化政策の方向性について、何らかの提言ができないかと思っています。
山内 その際に、大学の研究者として「モード 1」*2の知識生産形態をとるのか、政策の現場により近い、問題解決型の「モード 2」でお進めになるのか、で結果がだいぶ違ってきて、おそらく、後者の方が具体的で面白いのかもしれませんね。
岡本 いまのところ、あまりそちらには関心がありません。(笑)
山内 私もかつては関心がなかったのですが、GLOCOMに勤めはじめて、政策指向の活動の場を選ぶと、かえって研究が進むという経験をしました。
岡本 それはその通りかもしれません。
山内 「来週までに何か政策を書いてこい」とクライアントから言われれば、やはり成果を出さなければならなくなりますから。
岡本 それは確かにあります。この調査を始めてわかったことですが、政策に関して出てきているレポートがいかに明解かということです。これは日本ではちょっと違いますが。イギリスなどでは政策を目標として書いてくるときに、かなり周到ではあるけれども、誤解を恐れずに非常に明確に書いて、ターゲットとそれに至るアプローチと問題点がきわめてはっきりしている。手法としてとり入れられることは、どんどん研究のほうにもとり入れていかなければと思っているのですが、私はそこまで政策の中に入っているわけではないので…。
前田 逆の方から言いましょう。現状の官僚制度では、大学の学部だけ、しかも卒論を課せられない大学*3を出た若者が公務員試験に合格すると、いきなり政策形成の現場に入るわけです。それで、白書や審議会の報告書など、根拠が必ずしもきちんと証明されないにもかかわらず、主張の内容だけはきわめて明解な提言型の文章を書く訓練を徹底的に受けるわけです。それを十数年続けた後で、いきなり研究者になってアカデミックな論文を書けと言われてもなかなか書けないんですよね(笑)。これに対して、アカデミックな論文を書く訓練を受けた人が、政策形成の現場に入って提言型の文章を書くことは、実は衝撃が低いのではないでしょうか。
山内 その衝撃も同じくらい高いと思いますね。
岡本 前田さんには悪いのですが(笑)、日本の官庁で書かれているものは明解とは言えないと思います。
前田 そうですか。(笑)
岡本 イギリスの場合を見ると、人事的な移動についても戦略的に考えています。文化政策をやっていくうえで、経済や紛争解決も含めて全部、文化の問題だという位置づけになったので、省庁の中に横串を刺すような機関をつくって、そこにあらゆる省庁から人を送り込んでいます。そこには、外から、ブリティッシュ・カウンシル、BBC、あるいはジャーナリズムからもどんどん人が入ってきて、そこで全体としてものを見るとか、どうコミュニケーションをとるかということをお互いに学んで、省庁に帰っていくということをやっています。
山内 それは何という部署ですか?
岡本 DCMS(Department for Culture, Media and Sports)です。ここを中心として、少なくとも国内においては人事交流をやらせる。対外的には対外ビジョンというものが、それこそ経済、政治とばらばらにならないように、Britain Abroad Task Force というものをつくっていますが、これも国内外の政策に関する人々が広くメンバーになっています。このBritain Abroad Task Force は面白いですから、もっと研究してみようと思っています。
山内 半年くらいしましたら、またインタビューに来ますから、その研究結果のご報告をぜひお願いいたします。さて今日は、戦略として、対外文化政策を考えることの重要性が増しているということを、各国の例を研究されている岡本先生からお伺いできたのは、非常に面白いことでした。その際の主体がどこにあるのか、それぞれが持つべき効果はどこにあるのか、どのような手法をとるのかについて、各国が模索しているということも聞きまして、これは日本も何かしなければいけないと思ったところです。ぜひ今後も研究をお続けいただいて、われわれにも成果をご教示いただければ幸いです。本日はありがとうございました。
(2001年10月19日政策研究大学院大学にて収録)
*1 超強力化個人(empowered individual)は『レクサスとオリーブの木』(トーマス・フリードマン著)に出てくる言葉で、「超大個人」と訳されている。
*2マイケル・ギボンズが『現代社会と知の構造:モード論とは何か』で提起した社会的知識生産の在り方。単一のディシプリンの内的論理によって進められる従来型 の知識生産(典型的には大学による活動)を「モード1」と呼ぶ。高等教育の普及や、社会的問題の拡散に対応して、企業の研究所、シンクタンク、NGOなど、大学以外の多様な主体が、知識生産に参加するようになった。このような主体の活動は、課題別の参加、より現場に近い問題解決指向、トランスディシプリナリティなどを特徴とする。ギボンズ等は、このような知識生産活動を「モード2」と呼んでいる。
*3 典型は東京大学法学部。