科学技術コミュニケーションへのIT技術の導入
山田肇(GLOCOM主幹研究員)
科学者は学術論文を通じて、相互にコミュニケーションを図っている。このシステムの中に、IT技術が大幅に導入されつつある。論文の投稿、審査、校正、印刷、閲覧の全工程がさまざまな形でIT化され、それに伴って科学者のコミュニケーションのあり方が変わりはじめた。
本稿では、IT化が最も進んでいるAmerican Institute of Physics(AIP)での状況を説明する。GLOCOMは社会科学の研究所であって、組織内外の研究者とのコミュニケーションの進め方も、ここに紹介するような自然科学系とは異なるところがある。しかし、このAIPにおける先進的な事例は、社会科学でのコミュニケーションのあり方を考えるときにも参考となるであろう。
AIPとは
AIPは1931年に設立された。物理および工学系の学会に対して、学会誌の出版と配送の業務を提供することを主目的とする非営利法人である。
会員となっている学会は次の通りである。
American Physical Society
(1899年設立、AIP創設メンバー、会員数42,600)
Optical Society of America
(1916年設立、AIP創設メンバー、会員数12,500)
Acoustical Society of America
(1929年設立、AIP創設メンバー、会員数7,300)
The Society of Rheology
(1929年設立、AIP創設メンバー、会員数1,600)
American Association of Physics Teachers
(1930年設立、AIP創設メンバー、会員数10,500)
American Crystallographic Association
(1949年設立、会員数2,100)
American Astronomical Society
(1899年設立、会員数6,300)
American Association of Physicists in Medicine
(1958年設立、会員数4,500)
American Vacuum Society
(1953年設立、会員数5,400)
American Geophysical Union
(1919年設立、会員数32,600)
この他に Society of Physics Students(1968年設立、会員数5,000)と Sigma Pi Sigma(1921年設立、会員数42,000)は、学会ではないが会員として位置づけられ、また49の企業あるいは研究所が賛助会員となっている。AIPは American Institute of Aeronautics and Astronatics を含む22の関連学会の活動にも協力をしている。
論文審査までのIT化
研究者が論文を提出し、それが出版され、広く購読されるまでの過程を追いながら、AIPがそれぞれのプロセスをどのように電子化しているかを説明しよう。
研究者が論文を記述する際に利用するWord2000の下で動くツールキットを、AIPは2000年4月にリリースした。このようなキットの普及で、電子的な提出は増加する傾向にある。2000年には50%が電子的に提出され、これは前年より2%の増加である。いくつかのジャーナルでは、その比率は90%に達している。論文中の図面についても前年より6%増加して、48%が電子的に提出されるようになっている。
電子的な提出について、AIPには長い歴史がある。1980年代はTeXが利用され、今ではWordなどが多い。タイプの打ち直しが不要になり、それだけ間違いが減り、また経費が節約され、出版までの時間が短縮されるなどの利点がある。ベテラン研究者が電子化になじまないことが、投稿の全面的な電子化を阻む問題点である。電子的な提出でない場合には、フィリピン、アイルランド、インドにファクスで送信し、そこで安価な労働者がタイプして電子化され、それが以後のプロセスで利用されるようになっている。
投稿された論文は、その分野の同僚によって審査される。いわゆる peer review である。編集者が投稿論文の形式について審査した後にpeer review が始まる。このプロセスでは、スキャンをしたかのような形式で、査読対象の論文を送信することになっている。ここでも、査読者となる可能性が高いベテラン研究者が電子化になじまないことが、問題点として指摘されている。
出版までのIT化
審査に合格すると、印刷用の校正刷りが作成される。校正刷りの段階では、すべてのゲラがウェブからダウンロードできるようになっている。約90%がウェブを通じて送信され、85%はダウンロードに成功している。著者からの応答がスピードアップされた結果、いくつかの論文は予定号よりも早く出版されるようになっており、これは非常に好評を得ている。
校正刷りとして2種類が著者に送付される。一つはスキャンイメージに編集者が編集記号を書き込んだもので、もう一つは編集後のスキャンイメージである。著者が投稿論文の番号を入力すると、ホームページから二つのフォーマットでダウンロードできる。電子メールでコメントを返すか、ファクスで返信する。これに7日から10日かかる。
採録決定から出版までの平均日数は、最短で25労働日、平均で30労働日程度である。このようにして全プロセスが短縮してくれば、他の組織が推進しているオンラインによる印刷前の出版(pre-print publication)の動きに対抗できると考えている。印刷所に最終稿が送付されると、翌日にはオンラインで閲覧が可能になる。図書館にジャーナルが並ぶよりも1週間以上早い。
オンライン・ジャーナルの広がり
バックナンバーについても、デジタル化とオンライン提供が進んでいる。参考文献には Digital Object Identifier を付けて、それを用いてその文献にリンクを張れるようになっている。AIP名で発行しているすべてのジャーナルで、そのIdentifierが装備されている。Digital Object Identifier によるクロスリファレンスのシステムは、今後さらに導入が進むと考えられている。2000年には30以上の出版物が、オンライン・ジャーナル出版サービスの対象として追加された。現在は16学会の100以上の出版物がオンライン・ジャーナル出版サービスに組み込まれ、21万以上の論文が蓄積され利用されている。
オンライン・ジャーナル出版サービス利用者は、2000年には前年より78%増加した。複数のオンライン・ジャーナルを利用している者もいるので、複数を購読してもまとめて1と数えるようにすると、その総計は52,800になっている。このうちおよそ5,500は組織として登録しており、毎月12万のユニークなアクセスがある。2000年を通じて全部で600万の論文がダウンロードされ、無料で提供される目次欄について毎月100万以上の利用があり、およそ100万回の検索が実行されている。
電子化は、素粒子やバイオのように、著者もページ数が多くなりがちな分野に適している。ゲノムのシーケンスはデータとしても重要で、紙としての出版よりも電子的な出版に価値がある。映像符号化なども、新しいアルゴリズムの処理結果を提示するためには、紙よりもマルチメディア素材のほうがよい。しかし、電子的なものは、Quick TimeやSGML、Wordなどが、製品としては10年ももたないだろうことを考えると、将来、頻繁に形式変換の作業が必要になるという欠点があるかもしれない。AIPは、テキストについてはXML(Extensible Markup Language)化を進めているが、それでは画像などをサポートしてないので、まだ不充分である。
利用者側が提供できる資金が限られた状況だからこそ、オンライン出版には無限の可能性がある。ジャーナルの購読姿勢は一層オンラインによる方向に傾いてきた。2001年には、ジャーナルのみならず学術会議のプロシーディングス(論文集)、工業標準なども含み、より多くの出版物がオンライン化される。ジャーナルの購読者は、一冊ずつ丸ごと購入するのではなく、異なるジャーナルから自分の興味がある論文だけを収集し購読するといった、新しいパターンを利用するようになるだろう。また、利用の統計も、ウェブ技術を元にして開発される。学会がオンラインによる情報提供に慣れてくれば、媒体のマルチメディア化も進むと考えられる。
AIPは会員学会に代わって、ジャーナル類のマーケティングを、各種の学術会議における展示、図書館へのセールスなどの形で進めている。また、出版物の料金を、会員学会に代わって代行徴収するサービスも実施している。図書館がオンライン購読を選択すると、購読料が値引きされる。1999年には値引き率15%であったが、2000年には20%、2001年には25%へと拡大している。海外の図書館はオンライン購読によって郵送料を節約し、また、いち早く論文を入手することができるようになった。ちなみに、代表的なジャーナルである Journal of Optical Society of America A の場合、Optical Society of America 会員が印刷形式で購入すると年間67ドルで、非会員として位置づけられる図書館が購入すると1,264ドルかかる。これがオンラインの場合には、会員であれば38ドル、図書館は1,011ドルで購入できることになっている。
AIPでは、2000年1月にバーチャル・ジャーナルを開始した。Virtual Journal of Nanoscale Science and Technology と Virtual Journal of Biological Physics Research である。これらのバーチャル・ジャーナルは、American Physical Society と10の学術誌出版社の協力で実現したものである。バーチャル・ジャーナルには、46の出版物からの転載論文が掲載されることになっている。論文の選択は、専門家が機械の助けを借りて実施する。2000年末の段階では30誌からの3,500論文が収録されている。月に65,000件のヒットがあり、そのうち4,300件はダウンロードに結びついている。無料で利用できる目次欄の利用者も増加の傾向にある。
そもそもバーチャル・ジャーナルを出すことになったのは、ホットなトピックについて、商業出版社がニッチな雑誌を出すのを阻止したいと考えたからである。「高温超伝導ジャーナル」など、ニッチすぎて役立たない雑誌が出過ぎている。だからバーチャル・ジャーナルは、ホットなトピックについて発行する。タイトル、著者名、掲載誌等の基本的な情報だけが掲載されていて、それ以上読みたければリンクをクリックする。それで各出版元につながる。JJAP(Japanese Journal of Applied Physics)も、この事業に参加する。
電子化論文の利用
誰もがオンライン図書館から、無料で論文をダウンロードできるようになるという見方をAIPはしていない。今の段階では、それは著作権法違反である。図書館を実際に訪問した人、組織の図書館ならその組織の職員、大学なら学生などが、オンライン契約した図書館から無料でダウンロードするのを許されている人々で、誰でも無料でダウンロードしてよいわけではない。そもそも、もし、一図書館から無料でダウンロードできるということになれば、誰もジャーナルを購入しないので、ジャーナル作成にかかった経費、AIPなら4,900万ドルはその図書館が支払わなければいけないことになる。AIPがカバーしているのは、全体の20%にしか過ぎないから、世界中のジャーナルをそのような形で提供する費用は莫大になる。
研究者が研究に使用したり、同僚の間で論文を共有したりすることはフェアユースの範囲内である。ダウンロードしたファイルを配布することも許す。ただし、ホームページにそのままの形で掲載することは認めていない。著者も同様である。AIPは著作権の譲渡を受けた後、その使用権を著者に認めている。著者は研究者として希望することを全部できる。たとえば本に転載してもかまわない。教材にしてもよい。しかし、ホームページに掲載できるのは投稿原稿のレベルである。ジャーナルに掲載されたものには、編集という形でAIPの知識が入っている。したがって、それを無料で使用することは許していない。
AIPの財政規模は、2000年について出版サービスに関する収入が4,960万ドル、同サービスへの支出が4,420万ドルとなっている。その他、会員学会ごとにそれぞれ特定のサービスを代行することによる収入と、それとまったく同額の支出860万ドルなどを含め、収入総額は6,420万ドル、支出総額は6,350万ドルで、約70万ドルの黒字になっている。また、総資産は1億2,990万ドルある。事業の一種として、AIPは出版物の購読料を会員学会に代わって徴収する活動も進めている。その総額は6,700万ドルに達している。
おわりに
わが国では、自然科学分野の学会であっても、IT化のレベルはAIPに比べて遅れている。これが原因で、投稿から出版までの期間が短縮できていない。もともと、国内の論文誌が世界的に注目されることは少ないということもあり、よい研究をした科学者ほど、読者が多く、また、早く出版されるAIP系の雑誌に投稿する傾向にある。国内の学会は、総じて地盤沈下の方向にあるのである。
これを改善していかなければ、日本を科学技術で世界をリードする国として発展させていくことも難しいだろう。国内学会が早くIT技術の全面的な導入に踏み切ることが期待される。同時に、社会科学系の研究者の間でも、相互のコミュニケーションの中にIT技術を一層導入していかなければ世界に取り残されるかもしれない。学会としてこのような問題を真剣に議論するときが、一刻も早くくることが強く期待される。