く・も・ん・通・信
かつてカール・マルクスは、『共産党宣言』(1848)のなかで、「ブルジョア階級は、かれらの百年にもみたない階級支配のうちに、過去のすべての世代を合計したよりも大量の、また大規模な生産諸力を作り出した。自然力の征服、機械装置、工業や農業への化学の応用、汽船航海、鉄道、電信、全大陸の耕地化、河川の運河化、地から湧いたように出現した全人口――これほどの生産諸力が社会的労働のふところのなかにまどろんでいたとは、以前のどの世紀が予感しただろうか?」と述べて、ブルジョア階級が歴史において演じた「きわめて革命的な役割」を賞賛しました。しかし同時に、『資本論』第一巻の有名な第二十四章「いわゆる本源的蓄積」の第六節「産業資本家の創世記」は、「資本は、頭から爪尖まで、あらゆる毛孔から血と汚物とを滴らしつつこの世に生まれるのである」という言葉で結ばれています。
私はこれまで、来るべき情報社会における“智民(ネティズン)”たち――“智民階級”というつもりはありませんが――が演ずると思われる革命的な役割について、もっぱら考え、語ってきました。彼らは、過去の半世紀そこそこの台頭過程のなかで、「過去のすべての世代を合計したよりも大量の、また大規模な」、コンピューティングやネットワーキングの諸力を作り出したのです。
初期の智民(ネティズン)たちについては、「ネティズンの目は澄んでいる」とか「ネティズンに悪人はいない」といったたぐいの、彼らを理想化しようとする言い方がしばしばみられたものです。しかし、最近のインターネット上でのウィルスや犯罪の跳梁、あるいは人種差別的、個人攻撃的な言論の横行、あるいは“サイバーウォー”とも呼ばれるようになった国家間やグループ間のサイバースペースでの熾烈な戦いなどを見る限り、将来の歴史家が書くことになるはずの、智民、あるいは「情報智業家の創世記」もまた、「智本は、頭から爪尖まで、あらゆる毛孔から血と汚物とを滴らしつつこの世に生まれるのである」という言葉で結ばれざるをえないのかと思わざるをえません。たとえば、先日、元アスキーの西和彦さんが立ち上げようとした“1チャネル”に加えられた、一見するだけでたちまち吐き気をもよおすような悪辣、低劣な個人攻撃の数々、あるいは、先月号の雑誌『諸君!』で報道された、中国の“愛国主義者”と自称する人々による日本人やフィリピン人対する無礼極まる悪口雑言の数々、などを見るにつけても、そうした思いが抑えがたくなります。
もちろんそうはいっても、私はそれゆえに情報化に向かう歴史の流れを全否定するつもりはありません。しかし、マルクスが見て取ったような、大きな社会変化に不可避的に伴う“原罪”については、肝に銘じていなくてはならないと思います。
「共有地の悲劇」や「救命艇上に生きる」、「荒野の経済学」など、読む人の肺腑をつくような論文の筆者であるアメリカの生物学者ガレット・ハーディンは、「われわれは誰も泥棒の末裔」だと言い切っています。私たちの祖先は、他人の財産を収奪することで、自分たちの財産を築き上げてきたのだというわけです。同じような意味で、未来の情報社会に生きる子孫の祖先にあたる私たちも、他人の知識や情報を奪い、他人の情報権を踏みにじることで、自分や自分の属するグループの立場や影響力を強めようとしている一面があることは否定できません。しかし同時に、私たちはさまざまな理想をかかげ、その実現をめざして他の人々との交流や共働に努めてもいます。多分私たちは、ダブル・スタンダードの道徳律に従って生きているのです。その限りで、私たちのかかげる理想は、あるいは理想の追求過程で生み出される進歩は――恒久の平和であれ、万人の幸福や平等であれ――かりに実現可能だとしても、局所的で一時的なものにとどまらざるをえないでしょう。きっとそれが、私たちの“業”というものなのです。
公文俊平