バイオインフォマティクス
講師:美宅成樹(東京農工大学工学部生命工学科教授)
2001年2月、人類が受け継いできた遺伝子、ヒトゲノムの解析が完了したと発表された。もちろん、この成果は長年の研究の積み重ねの上に成り立つものだが、ゲノム研究に対する期待は高まりつつあり、この数年来、研究予算は増額の傾向にあるという統計もある。新聞などでも報道された「ヒトゲノム解析」のニュースは、人びとに新たな時代の幕開けを予感させたのではないだろうか。
しかし、今回講師としてお招きした美宅成樹東京農工大学工学部教授は、現在のゲノム解析をめぐる状況を「機械の設計図が手に入ったというだけで、まだ設計図の読み方や部品の組み合わせの原理についてはわからない状況」だと説明する。遺伝情報は、細胞の中にあるDNAの塩基配列という「文字」の連鎖によって蓄えられているが、実はDNAで使われている文字はたった四つしかない。しかし、その四つの文字を組み合わせることで、生物を形作る何万種類もの遺伝子が表現されているのだという。
ヒトゲノムの解析が完了したというのは、実は、文字の並び順が明らかになったというにすぎない。どの部分が実際に使われているのか、またそれぞれの「単語」の切れ目がどこにあり、それぞれの単語がどのようなタンパク質に対応しているのかということを明らかにし、それらのタンパク質が作り上げた生物の仕組みの解明に至るまでには、さらなる研究が必要とのことである。
しかし、バイオインフォマティクスとは、単に遺伝情報の単語探しというわけではない。バイオインフォマティクスの本当の使命は、遺伝子の「配列」の中に蓄えられる遺伝情報を明らかにし、その情報に基づいて組み立てられるタンパク質の立体構造や、生物の中でタンパク質が担っている機能とその構造との結びつきを解明することなのだという。大量の情報処理にもとづいて、意味のある配列を探し出すということではなく、生物を「情報処理機械」という視点から説明していくアプローチこそが、この研究分野をバイオ「インフォマティクス」たらしめる所以なのかもしれない。
美宅教授によれば、ゲノム情報を分析すると、生物の進化の過程で、脊椎動物は何らかの理由により、それまでの生物の4倍の遺伝情報を持つことになったことがわかるという。それまでの4倍に「冗長化」された遺伝子の一部は失われたが、ある一部は別の遺伝情報を伝える遺伝子へと変異した。脊椎動物が多様な生物へと進化することができたのは、まさにこの遺伝子の冗長性によるものなのである。
美宅教授は、それと同時に脊椎動物が手にした一種の「誤り耐性(fault tolerance)」についても言及した。生物の遺伝子は複製の過程で、必ずどこかが失われたり、変異したりするものなのだが、情報が冗長化されていることで、それらの多くは顕在化しないのだという。そういう意味で、生物の「障害」とは遺伝的には特異なことではなく、遺伝情報の欠損や変異の大きなスペクトラムの一部にすぎないのだという教授の指摘は示唆的である。
※ 美宅教授は、IECP研究会当日の朝まで新著の執筆にあたられており、そのようなご多忙のなか、研究会の講師をお引き受けいただいた。お招きした者としては大変恐縮に思う次第である。このような誌面でいささか場違いではあるが、この分野にご興味をお持ちの方は、教授の新著『分子生物学入門』(岩波新書)をぜひお求めいただければ幸いである。
上村圭介(GLOCOM主任研究員)