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Center for Global Communications,International University of Japan

智場、GLOCOM Review、コラム…


 

く・も・ん・通・信

  私は、もうかれこれ30年近く、生物学者のガレット・ハーディンが主張した“救命艇の倫理”の呪縛を、どうしても逃れられないでいました。

 ハーディンは、現在の世界を、本船の“地球丸”が難破した後で、人々が個々の国という救命艇――“アメリカ艇”や“日本艇”――に乗り移っているような状態だとみなしています。各救命艇には、規模、航行能力、乗員数等々の面で格差がありますが、そこでハーディンは、次のように問題を提起したのです。

「豊かな国は、それぞれ比較的豊かな人でいっぱいな救命艇と考えることができる。これに対して、世界中の貧しい人々は、別の、はるかにごった返している救命艇に乗っている。四六時中、貧乏人は救命艇から転び落ち、しばらくは海面で泳ぎながら、金持ちの救命艇に引き上げてもらえるか、船上の『甘い菓子』を何とかして恵んでもらえないかと願っている。金持ちの救命艇上の乗員はどうすべきか」

 このような救命艇は、有限の“生活扶養力”しかない、一種の“共有地”にあたるでしょう。ハーディンは、この生活扶養力自体が外部環境との関係で変動(とりわけ低下)する可能性をも考えに入れて、“安全因子”という観点を追加します。その場合には、豊かな艇の乗員たちにとっての倫理的な行為は、「これ以上、誰も船に乗せず、小さな安全因子を確保せよ」というものになります。乗りたい人をいくらでも艇に収容したり、艇内の食料や燃料を惜しみなく他の艇に分け与えたりすれば、結局全員が溺れ死ぬことになるからです。また、まだ余分の収容力や余剰物資があるからといって限度いっぱいになるまでそれらを利用すれば、安全因子が失われることになり、環境条件の僅かな変動によって全員が溺れ死ぬ危険を増大させることになるからです。

 他方、「自分が幸運であるのをやましく思う」ような“良心”の持主が自ら艇を下りて、かわりに他人――乗り込んでくることにやましさを覚えない人々――を乗せてやることは、“発作的な奇行”にすぎず、救命艇状況それ自体をなんら変化させるものではありません。また、個々の救命艇にとっての安全因子を救命艇相互間の連帯と共働によって引き上げるようなシステムも、好ましくありません。なぜならば、そのような制度があると、個々の救命艇は、自らの努力で自艇の安全因子を維持・拡大するよりは、むしろ乗員数(とくに子ども)を増やしたり、その生活水準を引き上げたりする方向に走り、結局は世界全体としての救命艇状況をいっそう深刻化させるからです。

 いかがでしょうか。地球資源の有限性を否定できない以上、それがいかに不愉快なものであれ、ハーディンのいう“救命艇の倫理”を否定することもまた難しくはないでしょうか。そのような目でみると、911の“テロ”は、沈没を目前にした貧しい救命艇からの、豊かな救命艇に対する絶望的な攻撃のようにみえます。またアメリカが呵責なく推し進めている“対テロ戦争”は、そうした攻撃に対する決然とした否定のようにみえます。

 しかし最近、丸田一さん(GLOCOM主幹研究員)の議論に触発されて、もう一つの観点が追加できはしないかと思い始めました。“地球の有限性”はいってみれば、最後の制約条件であって、それ以前にあるのはむしろ“地球の豊饒性”です。だからこそ、この地球上には、多種多様な生命体が発生して、生きることの喜びを享受しつつ、進化のゲームとでも呼ぶことのできる営みを繰り広げることが可能になっているのです。地球生命体にとっての目標は、有限な地球の上で、少しでも長く存続できるようにつつましく生きることではなくて、最終的には地球の有限性を制約とみなす必要のないような生命の形態に、進化していくことではないでしょうか。もちろんその過程で、有限性の壁に阻まれて共倒れになってしまっては元も子もありません。ですから“安全因子”を残すことは大切です。しかしそれはあくまでも、より高い目的のための手段としてであって、それ自体が最終的価値基準なのではないと思われます。

公文俊平

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