『情報社会のリテラシーに関する試論』
上村圭介著
首相官邸のミレニアム・プロジェクト以来、国内のIT関連施策の方向を決定する各種計画には必ず「教育の情報化」が盛り込まれ、国民すべてに情報リテラシーが必要である、との認識は、以前に比べれば一般的になりつつある。
リテラシーとは、単なる知識技能とは異なった特別な重みを持つ言葉である。しかし、情報リテラシーの議論を扱う者が時折感じるのは、この言葉の持つ重みがきちんと定義、理解されぬまま操作スキルと短絡され、結果としてきわめて表面的で陳腐化しやすい技能を学習者に強要しているのではないか、という疑問である。
そこで著者は、オーストラリアのケースを引用しながら、リテラシーという言葉に対する認識の変容を明らかにすることによって、情報社会における位置づけを試みている。
まず、情報技術とリテラシーとの関連性について、著者は「情報通信技術のための知識と技能は、すでに社会生活に欠くことのできないリテラシーとなっている」と説く。インターネットが生活の一部となった今日においては、「もはや、人々にはインターネットから退場する選択肢は残されておらず、自然にスキル習得できるという期待を持つことも適切でない」からである。
オーストラリアでは、移民者等社会の新規参加者に対する言語能力や社会参加のためのリテラシー獲得プログラムが実施されてきた経緯があり、リテラシーは、学校教育だけでなく、成人教育や職業訓練上の課題としても重視されているという。そもそも、リテラシー(literacy)とは英語の「読み書き」のための能力を意味しているが、1960年代までリテラシーは英語教育の一部として教えられ、明示的な問題となることはなかった。これが60〜70年代には「他教科の下支えをする基礎的能力の問題」と認識され、90年代には「社会に参加し、各自に与えられた役割を遂行するための能力を含むもの」と理解されるようになった。すなわち、著者の定義によれば、リテラシーとは「社会に参加する人々に力(empowerment)を与える能力」をいうことになる。
リテラシーは時代とともに、技術の進歩とともに定義し直されてきたが、これは情報技術の進展や進化によって規定されるものというより、むしろ、人間の知的活動の進展にともなって変化する知的対象を反映したものと著者は考える。つまり、情報社会のリテラシーとは、「読み書き能力」としてのリテラシーに情報技術を使いこなすための知識と技能を追加したものではなく、「情報社会」という社会における人間の知の体系や社会構造の変化を反映したものになる。
著者は、リテラシーの新たな領域として、Lankshearらが提唱する情報技術のリテラシーや、Lo Bianco and Freebodyの主張などを紹介している。Lo Biancoらによれば、リテラシーの変容とは、経済活動のグローバル化、情報通信技術の向上、社会の多様性という3側面の変化によってもたらされるとしており、新しいリテラシーの必要性は、ITの普及だけでなく社会の変化に伴うものと解釈されている。
また著者は、情報技術やグローバル化によって複雑化する社会において、就業環境の変化や求められるタスクの変化に応じて自分の知識と技能を組み換えていく資質、「ポートフォリオ人間」を取り上げ、情報社会のリテラシーには、このようなポートフォリオ化の能力が含まれることを示唆した。
豊福晋平(GLOCOM主任研究員)