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智場、GLOCOM Review、コラム…


 

国連平和維持活動とNGOの役割

石原直紀(政策大学院大学オーラルヒストリー・プロジェクト事務局長)

前田充浩(情報社会学者)

山内康英(GLOCOM主幹研究員)

前田  今回は、政策研究大学院大学の石原直紀氏をお招きして、国連の平和維持活動(PKO: Peace-Keeping Operations)について考えていきたいと思います。

 情報化の進展に伴う国際社会のガバナンスの変化を展望する際に、国連の役割をどうとらえるかは重要な課題であると言えます。このため、インタビュー・シリーズでは国連の具体的な活動を取り上げてケース・スタディを行っているところであり、前回は「G8ドット・フォースと国連情報社会サミット」を取り上げました。今回取り上げる平和維持活動は、このようなケースとしても興味深いテーマであるのみならず、日本にとっては、東チモールでの陸上自衛隊のオペレーション UNMISET(国連東チモール支援団)が始まったこともあり、外交上のホット・イシューと言えます。

 それではまず、石原さんと国連との関係についてお聞かせください。

冷戦後の国連安保理への過剰な期待

石原  私が最初にアメリカに行ったのは1981年ですが、国連で仕事をするつもりで行ったわけではありません。ニューヨークにあるコロンビア大学の大学院で、国際政治の勉強をしようという目的で留学したわけです。そこで2年間勉強しておりましたら偶然、日本政府の国連代表部──国連で日本を代表して、大使館の機能を果たしているところですが──に専門調査員というポストができたので「興味があったら面接に来ませんか」というお誘いをいただきました。アメリカで国際政治を勉強していると、具体的な外交政策決定など、学問に実務的な要素が色濃いものですから、「そういう経験をするのもいいのではないか」と思って、3年間その仕事をさせていただきました。

 引き続いて、当時の黒田瑞夫国連大使の勧めもあって、今度は国連事務局のほうで国際公務員として働き始めたのですが、結果的に20年近くニューヨークにいることになってしまいました。その間、1992〜93年にかけて、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)というカンボジアのPKO活動に参加しておりました。ニューヨークに帰ってからは、PKOの予算の仕事をするようになったというのが私と国連とのかかわりであり、PKOとのかかわりです。

山内  それでは1992年から、明石特別代表の下で働かれたわけですね?

石原  そうです。正確に言えば、UNTACの設立は1992年3月15日です。明石康事務総長特別代表がカンボジアに行かれた日です。

前田  国連のPKOについては、いろいろな評価があります。1992年というUNTACの前後は、国連のPKOにとって特別な時期だったと思いますが、いかがですか?

石原  そうですね。いちばん大きなターニングポイントになったのは、もちろん冷戦が終わったということです。冷戦の間機能がマヒしていた国連安全保障理事会が活性化する、という期待感がありました。象徴的な出来事として、1992年に歴史上初めて、安全保障理事会の首脳レベルのサミットがあって、メージャー首相、ブッシュ大統領、エリツィン大統領、日本からは宮沢首相(いずれも当時)が出席し、「冷戦の終焉を踏まえ、どうしたら国連を平和安全保障の分野において活性化することができるのかについて事務総長に提言を出してもらいたい」ということになりました。これが同年6月に、ブトロス・ガリ事務総長(当時)の『アジェンダ・フォー・ピース(平和への課題)』という提言書に結実しました。同時に、冷戦時代に封じ込められていたいろいろな紛争の後始末で──カンボジアの場合は後始末ですし、ユーゴスラビアやソマリアですと冷戦が終わったことによって生じた紛争という側面もあるのですが──国家間の紛争が再発しないように管理するという従来型のPKOから、内戦の続く対象国に関与して平和を創出するPKOという、新しい要素が出てきました。UNTACがその先例というか、ひとつの典型だと思うのですが、これは必然的に従来型のPKOに比べ、はるかに複雑な活動になります。たとえば難民の帰還とか、カンボジアの行政を一時的に監督したり、選挙を実施する、さらに復旧復興支援を行ったり、あるいは人権侵害を行う政治集団に警告をしたり、いろいろな要素がPKOの活動の中に入ってきました。一般に複合型PKOと呼ばれていますが、第二世代のPKOの始まりです。そういう意味において、画期的であったと言えると思います。

山内  第二世代のPKOはガリ事務総長の退任とともに大きく後退したように思いますが、東チモールなど、現在のPKOについてはどのように評価しますか?

石原  PKOには三つの大きな活動原則があります。一つめは、紛争当事者の同意があって初めて展開できる。二つめは、当事者の間で中立の立場で仕事をする。三つめは、武器は自衛のためにしか使わない。こうした活動原則が1948年から40年あまり、ずっとPKOの慣行として定着していました。ガリ事務総長は、『平和への課題』の中で、冷戦の終焉という事態を踏まえて、「国連軍をつくるのは難しいだろうけれども、従来のPKOよりはもう一歩踏み出した形で、たとえば武装解除というような仕事をするうえでは、武器をある程度使っても仕事をやったほうがいい」、こういう野心的なアイデアを提起したわけです。これに対しては加盟国の間でも意見が分かれていて、必ずしもコンセンサスが得られていない状況だったのです。つまり、従来は「国連憲章第六章」に準拠した平和的解決手段として使われてきたPKO──もっともこれは「六章半」と呼ぶこともあったのですが──それを「第七章」にまで踏み込んで、つまり、強制行動を取り入れた形でPKOを行っていくという野心的なアイデアを出して、これをソマリアやユーゴスラビアで実施しようとしたわけです。

 ところが周知のように、それはうまくいきませんでした。頓挫したことによって、これは、今の国連のPKOの能力、あるいは国連の能力というものを超えた要請であるということで、ガリ総長も95年に『平和への課題 ─ 追補』というものを出して、「やはりPKOは、従来の原則に従ってやるのがいちばん現実的である」というように軌道修正を図っていきます。

 加盟国のほうでも、ソマリア、ユーゴスラビア、ルワンダの経験を踏まえて、現在では、自分たちがどれだけ国連のPKOに対して人や資金や機材といったリソースを出すことができ、どの程度自分たちが出している軍隊が現場でリスクを負うことができるのか、場合によっては生命の危険を冒してまでできるのかということも含めて、PKOを考えるようになっています。そして、今の加盟国には、そのような危険を冒すだけの用意はまだない。そういう現状から、「PKOを従来の原則を超えた形で展開していくべきではない」という軌道修正が図られ、従来のパターンに回帰していくという現象が現実的に起こっているわけです。つまり、加盟国側からも、国際社会全体としても、それほど野心的なことはできないということで、冷戦終結直後にあった一種の国連ないし国連PKOに対する、今にして思えば「過剰な期待感」に冷水を浴びせるような形で、PKOの活動が縮小していったわけです。

 予算規模でいうと、93年、94年のユーゴスラビアのオペレーションの最盛期には、年間36億ドルくらいをPKOに使っていました。PKOは別会計ですが、国連の通常予算は12億ドルですから、その3倍をPKOに使っていたわけです。それが、PKO熱が冷めるとともに、10億ドル以下くらいに縮小していきました。ただ、98年以降になると、シエラレオネ、コンゴなどで大きなミッションが立ち上がり、また、コソボや東チモールでの活動というように、「従来の伝統的な形であっても、PKOを生かしていくという需要は国際社会にはある。しかもそれは有効である」というバランスのとれた判断に回帰していき、現在のPKOは、予算規模で20億ドルくらいになっています。大筋でこういう流れがあります。

前田  すると現在のPKOは第三世代になるわけですか。

石原  そうですね。活動内容の側面に注目すると、たとえば東チモールでのPKO、特に国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)はUNTAC型のPKOで、必ずしも新しい要素はないのですが、ソマリアや旧ユーゴで経験したように、新たに入ってきた要素は人道支援というような分野です。PKOが人道支援にあたる人たちを保護したり、支援したりするという新しい仕事が入ってきました。それをとらえて、第三世代と言う人はいますね。

前田  ガリ事務総長の路線が失敗したあと、日本では一見、PKOに対して熱が冷めていますが、今後は地についた活動が始まるとお考えでしょうか?

石原  日本についていえば、カンボジアを皮切りに、モザンビークやゴラン高原など、継続的に国連PKOに参加していますし、最近では、東チモールへの自衛隊の派遣というように、着実にPKOへの参加を強化しています。カンボジアの当時は国内事情で凍結されていた、日本流にいうPKF(Peace-Keeping Forces)に対する参加の道も、法律的に開かれました。

カンボジアPKOの成功を支えたもの

前田  そこでおうかがいしたいことが三点あります。一つめは、カンボジアはこれまでのPKOの中でも群を抜いた成功だと思うのですが、その理由は何か、ということです。二つめは、国際社会の安全保障を考える際に、国民国家と国連の役割の適当なバランスをどのように考えればいいのかという問題です。三つめは、人道支援に参加する団体を国連が保護するようになったとおっしゃいましたが、シビル・ソサエティから出て来たNGOなどのボランタリーな団体が、国際社会において果たす役割をどう評価するのかということです。カンボジアでは、NGOの活動が非常に大きかったというのが私の判断ですが、今後、国連がこれとどのように連携しようとしているのかを含めて、お話しいただければと思います。

石原  まず一つめのカンボジアのPKO活動ですが、国連の安全保障理事会も公式に「このオペレーションは非常にうまくいった」と表明していますし、一般の評価も成功だったという見方が支配的です。

 理由はいくつか考えられると思うのですが、その後の旧ユーゴ、ソマリアと比較してみた場合、当時のUNTACの明石代表もいろいろなところでおっしゃっているのですが、まず第一点として、パリ協定という政治的な枠組みがしっかりできていたということですね。次に第二点としては、枠組みがあるがゆえに安全保障理事会の常任理事国を中心にして、現場のUNTACのオペレーションと、それをサポートする政治、外交的な支援が非常にうまくかみ合っていたということです。第三点は、現場の話ですが、明石代表の的確なリーダーシップがあったと思います。

前田  明石代表のリーダーシップについて、具体的には、どのような点を挙げますか?

石原  ご存知のように、ポル・ポト派は、選挙プロセスからは離脱しました。ポル・ポト派が武装解除に協力しなかったという事態を受けて、当時のプノンペン政府も、今のフン・セン首相が率いていた人民党政府ですが、UNTACに対して必ずしも全面協力で一直線にきたわけではありません。さらに、シアヌーク殿下が大変個性的なキャラクターの持ち主で、殿下なりの政治的な配慮に基づいていろいろと立場を変えるわけです。そうした難しい政治状況の中で、とにかく当事者を選挙まで引っ張っていくという意味で、各派を説得したり、説得のために外交的な力を使ったりという現場のマネジメントのスキル、これは大変なものがありました。大変粘り強くやられたと思います。

 しかも、欧米とアジアの考え方の違いという問題もありました。カンボジアはご承知の通りアジアですが、国連そのものは欧米の発想が強いですね。たとえば人権の問題でも国連の活動には欧米的な発想が色濃く投影されていますが、それをカンボジアの伝統的な政治・社会風土にあった形で調和させていったという面も含めて、明石代表のリーダーシップは大きかったと思います。

山内  UNTACを組織的にみますと、明石代表を頂点として、活動ごとに部門が設置されていましたね。

石原  はい。軍事部門、警察、選挙監視、行政監督、人権監視、難民帰還支援、情報/教育などですね。

山内  国連はラジオ放送まで運営していました。UNTACの特徴として、それぞれの部門の長の腕がよかったということはありませんか?

石原  それはありますね。国連のチームですから、いろいろなところからスペシャリストを呼んでいました。今おっしゃった「ラジオUNTAC」は情報/教育部門ですが、ここにはアメリカ国務省から、当時カンボジアの第一人者だったティム・カーニーが部門長として着任していました。実は私は彼の下で働いていたんです。また、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で難民帰還支援の責任者だったのが、東チモールで事務総長特別代表をしていたセルジオ・デ・メロという人です。そういう意味で、確かにいろいろな部門に優れた人材を登用していました。

山内  選挙部門の長は、たしかアフリカから出ていましたね。

石原  ジンバブエのプロフェッサー・オースティンです。

山内  オースティン教授は、ジンバブエでの国民選挙の経験をUNTACで生かしたわけですね。国連は、このような方々をどうやってリクルートしたのですか?

石原  国連の人事というのは地域のバランスを考慮して選ぶのですが、まず、それぞれの部門で優秀な人を出してくれといって、加盟国に候補者を出してもらったうえで、明石代表が実際に面接をして、選考されたと聞いています。

山内  カーニーさんの下にロシア人が一人いたのをご存知ですか? バレンティン・シビリドフという人です。冷戦時代に、東南アジアで情報活動をやっていた方ではないかと思います。

石原  バレンティンはベトナムにいたのです。私は、バレンティンともUNTACで一緒に仕事をしました。もう一人、ティム・カーニーの下にスティーブン・ヘッダーという、コーネル大学でカンボジアのことをずっと研究していて、今はロンドン大学にいる人がいました。バレンティンの場合はベトナムの専門家で、カンボジア語はできなかったのですが、地域には非常に詳しかったですね。やはり、さきほど申し上げたように、アメリカだけではなくロシアとか、地域的、政治的なバランスをとって部局を構成していかなければならないということもあって、ロシアからも入っていたということだと思います。

放送メディアが政治プロセスに果たす役割

山内  ラジオUNTACの効果をどのように評価されますか?

石原  とくに選挙を実施していくうえで大きかったですね。カンボジアはもちろん民主的な自由選挙なんてやったことがありませんから。事実上、全国土をコントロールしているのは人民党の政府(プノンペン政権)でしたが、形式的には4派ありました。とにかく公平な選挙という経験がないことに加え、彼らが自分たちに有利な形で投票を誘導しようといろいろと画策をするわけです。はなはだしいケースでは、政治暴力に訴えたり脅したりということをやってでも、投票を自分たちに有利なようにしようとする。さらに統治メカニズムや、インフラも十分でないという状態です。そのなかで、ポト派は別ですが、3派を選挙プロセスに参加させて、一般の有権者の人たちに自由で公平な選挙がどういうものかということをわかってもらって、投票に動員する。そういう人たちに直接訴えかける。その手段としてラジオUNTACは非常に大事でした。プログラムの中に、カンボジア風の漫才のような、普通の人にもわかりやすいプログラムを組み込んで、選挙の啓蒙活動を行っていました。実はラジオの放送アンテナを立てるのは非常にコストが高くて、それまでのPKOではやったことがなかったわけですから、その予算措置を講じるうえで国連本部といろいろとありましたが、結果的にはラジオが大きく功を奏したと言えると思います。

山内  ルワンダでは「千の丘」という放送局が、ツチ族とフツ族の民族対立を煽動したという記録がありますから、UNTACと比較した場合、放送メディアは政治的統合を壊す側としても、つくる側としても、どちらにも使えるということですね。

石原  ソマリアでもそういうことがありました。ですから、両刃の剣ということはあるのですが、UNTACの場合は、放送の内容をUNTACがコントロールしていました。しかし、フン・センの人民党政府も自前のプロパガンダ機関をもっています。そこで、ほかの各派にも選挙キャンペーンの機会を与えていくというのが大きな課題でした。

山内  UNTACでは健全なジャーナリストの育成もされていませんでしたか?

石原  やっていました。民主的で自由な選挙がどういうものであるのか。それはカンボジアの人たち全員が参加することであり、脅かされるという恐れなしに、秘密投票が確保されて選挙が行われる、ということです。それを説得して実際に投票所に足を運んでもらうことが決定的に大事でした。カンボジアは、東南アジアの伝統的な農村社会ですから、人間関係もある種、非常に古典的なところがあって、どの程度UNTACのアピールがカンボジアの人々に届いているのかが把握しにくかったのです。ですから投票日になって、あれだけの人が投票所に来るということを目にするまでは不安でした。明石代表は自信をもっていたとおっしゃっていましたが、それでもある程度の不安はあったし、メディアの中には、「うまくいかないのではないか」とシニカルに予想していたところも多かったのです。

山内  投票率は90%近かったですね。

石原  しかも、フン・セン氏の率いる人民党が僅差で負けました。

前田  UNTACが無料のラジオを配ったというのは本当ですか? それはどのくらいの量だったのですか?

石原  日本から中古のラジオを集めてカンボジアの人たちに配って、ラジオUNTACを聴いてもらいました。個数は正確に覚えていませんが、相当な数だったと思います。とくに日本から、中古ラジオがたくさん届いていました。

前田  ラジオではUNTAC以外の放送も聴けるわけですか? また、どういう方がUNTACのプロデューサーをやっていたのですか?

石原  もちろん聴けます。ポト派のプロパガンダもあるし、人民党のプロパガンダもあります。UNTACの情報/教育部門の中にプロのジャーナリストが何人もいました。プログラムをつくるうえでのアナウンサーや出演者には、当然カンボジアの人もいました。さきほど、カンボジアの人たちがどのような判断をしているかが把握しにくかったと申しましたが、結果的にみれば、人民党政府のプロパガンダ放送があり、かたやタイ国境近くのポト派の拠点に近いところではポト派のプロパガンダがあり、UNTACの放送も流れてくる。そのなかでどれが理性的かという判断をするだけの政治的なマチュリティ(成熟)を、カンボジアの人たちがもっていたということが大きかったと思いますね。カンボジアの内戦に翻弄されてきた人たちにとって、ポト派とはどういうものであり、人民党政府がどういうものであるのか、そこにUNTACが来て和平をやろうとしているということで、ある種、非常に健全な政治的ジャッジメントが、大筋であったのだろうと思います。

復興の地に民主主義の種子をまく

前田  UNTACの成功には、複合的な要素がからんでいるということですね。それではなぜカンボジアは、また混乱してしまったのでしょうか? あの選挙直後の明るい社会の雰囲気は、もうないのでしょうか?

石原  私もその後行っていないのでわかりませんが、間接的に聞いた話では、その後の選挙で、クーデターまがいの事件が起こったりしました。それでも曲がりなりにも民主的な選挙をやっていますし、あれだけ混乱した社会を立て直していくプロセスというのは、そう簡単にはいかないのではないかという気がします。明石代表が強調していたのは、「われわれは民主主義の種子をまいていくんだ。それを育てるのはカンボジアの人たちである」ということです。1年半ほどのUNTACの滞在で、カンボジアの社会を一挙に変革したり、根本的に変えて復興の軌道に乗せたりという、そういう野心的なことはできるはずがない。われわれは民主的な種を植えていくのだということです。あとはカンボジアの人たちの自助努力で、自分たちの社会をつくっていく。社会というのは複雑ですし、とくにカンボジアのように長い内紛を経験し、インフラも破壊され、あまり経済的なリソースにも恵まれていない、教育も十分でないという、いわゆる最貧国が立ち上がっていくプロセスは、そう簡単ではないでしょう。もう少し長い目で見る必要があるのではないかと思います。

前田  UNTACによってまかれた種子は、今も伸びているということでしょうか。

石原  そうです。多少軌道が右に行ったり左に行ったりということはあるのでしょうが、少なくとも民主的な選挙をやっていますし、今のフン・セン政府は、独裁的な性格もないわけではありませんが、それでも複数政党制を維持しています。カンボジアが必要としている経済援助を受けるためには、大筋においてきちんとした政治体制を維持していくという前提が必要です。そういう意味で、現カンボジア政府も、それほど独断的なことはできないと思います。ある種の外からのコンディショナリティ(制限)のようなものもあるわけですから。

前田  民主主義の種をまく以外の選択肢として、開発独裁の種をまくという選択肢もありえるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

石原  開発独裁の種をまくというのは、少なくとも意図としてまったくなかったと思います。基本的に冷戦後の国際社会のひとつの潮流だと思うのですが、民主化をする、少なくともそういうプロセスを経て政党や政府をつくらないと、なかなか国際社会に認知されないし、国際社会に認知されないと援助も入ってこないということがあります。そのため、途上国の側でも、ある程度民主的なものを受け入れざるをえないということがあります。ただ、どれだけ真に民主的な体制をつくっているのかということになると、当然、疑問符が付くのですが…。また明石代表の言葉を引用しますが、当時の「民主化と言っているが不十分だ」という批判に対して、「西ヨーロッパだって、民主的なものをつくるのに200年もかけているじゃないか。それを一朝一夕、1年やそこらで、そういう土壌のないところに完璧な民主主義を求めても、それは非現実的なことだ。日本だってご覧なさい」ということをおっしゃっていました。

PKOが抱える国際社会と国民国家の葛藤

前田  それでは話を戻しまして、二つめの国際社会の安全保障における国民国家と国連の役割のバランスですが、これについてはいかがですか?

石原  非常に難しい問題です。国連というのは、主権国家を中心とした国際社会の運営ルールのひとつの手段という側面と、主権国家の決定を受けて、国連としてグローバルというのかインターナショナルというのか、そのあたりの定義は私もよくわかりませんが、とにかく伝統的な主権国家の枠組みを超えた行動主体として国際社会に関与していく側面という、二つの面をもっていると思います。今お話ししたPKOの能力の面で、この二つの要素が葛藤しているところがあって、この葛藤がPKOの能力の可能性と限界を規定していると思います。

 とくにPKOの軍事部門をご覧になっていただくとわかりやすいのですが、国連のPKOは、たとえばUNTACでも、各国から出ている軍人は国連のヘルメットをかぶり、安全保障理事会の委託を受けた事務総長、さらには現地で国連を率いている、たとえば明石代表という最高責任者の指示の下に活動するわけです。しかしながら彼らは、それぞれの出身国の軍あるいは政府から自由な立場で国際公務員として活動しているのかというと、そうではありません。彼らはあくまでも日本の自衛隊であり、インドの軍隊であり、イギリスの軍隊です。それぞれの出身国の軍隊として活動している面があります。ですから、日本の国際平和協力法のときにも争点になったことですが、コマンド・アンド・コントロール、PKOにおける国連の指揮命令をどう考えるのか、ということです。日本政府は国連の「指示」と訳したようですが、現場でのオペレーションの「指示」は国連にあるけれども、その日本が出している自衛隊なら自衛隊員の人事や懲戒、あるいは日本の自衛隊の参加や撤退ということの決定は、日本国の、あくまでも日本政府の主権事項であって、国連の意向に従うものではない、従属するものではないということです。もちろん、これは日本だけではなくて、すべての国の軍隊がそうです。

 ですから、いちばん難しいポイントとして、PKOがどういう形でどこまでコミットできるのかについては、個々の主権国家の政府の決定に従わざるをえないという面があるわけです。ソマリアとか旧ユーゴスラビアで、PKOの活動がガリ事務総長のラインに沿って働かなかったのは、それぞれの主権国家、主権をもっている政府が、国連の活動を行っている自国の軍隊にどれだけリスクを負わせることができるのか、政治的にコミットできるのか、また政府だけではなくて、国民が自分たちの軍隊が派遣され、行っている業務をどのくらいサポートしているのかという、各国の事情に左右されたからです。国際社会の業務を、主権国家を象徴している軍隊を使って行うときに、矛盾が出てくる場合がある。そこに困難があると思います。

 アメリカでソマリアのことをずっと見ていたのですが、クリントンが大統領選に登場したときには、冷戦が終わったということで、アメリカ軍を国連の旗の下に活動させる、国連のコマンドの下に活動させてもいいということを示唆するような発言を、彼自身、選挙運動のなかで言っていました。ところが、アメリカ兵の死体がモガジシオの通りをソマリアの民衆によって引き廻されるというような悲惨な光景がテレビに映し出されると、アメリカの世論は、「これはいったいどういうことだ」、「どうしてアメリカ人があのようなところに行って、あのような目に遭わなければならないのか。そのための大義名分は何なのか」ということで、いっせいにPKOに対して懐疑的な視線を向け始めたわけです。これは、多かれ少なかれどこの国にもあることで、なぜなら本来、軍というのは自分たちの国の安全を守るためにあるわけです。自分たちとは直接関係のない場所の平和や、そこに住む人たちの安全に対して、どれだけリスクを負うことができるのかという点で、やはり国際社会と主権国家のギャップは大きいのだろうと思います。

 もちろん他方で、グローバリゼーションというのは、いろいろなレベルで進行しています。国連の場でも、いろいろな形で国際社会の人権や環境問題について共通の規範や約束事をつくっていこうということは、ずっと行われていることですし、スピードはゆっくりでしょうが、そういう方向でいくとは思います。つまり、いろいろな分野によって、主権国家と国際社会のギャップが広かったり狭かったり、異なるとは思うのですが、PKOの場合には、危険を伴うオペレーションという状況において、両者の大きな乖離というものが端的に示されたのではないかと思います。

山内  日本の警官が殉職されたのは、タイ国境でポル・ポト派に待ち伏せされたのでしたね。

石原  そうです。選挙監視員が移動するときに、その護衛車両の車列に日本の文民警察が乗っていたのですね。林の中からポト派の待ち伏せ攻撃を受けて、護衛の車列がばらばらになってしまって、ちょうど日本の車両が真ん中にあったので、挟み撃ちのような形になって犠牲者が出てしまったということです。そのあと、そういう事態があったにもかかわらず、オランダ人の文民警察部門の司令官から「現場に残るように」という指示があったのですが、当時現地に来られていた日本の警察のトップはプノンペンに召集をかけた。このために持ち場を離れた、離れないという行き違いもありました。

山内  文民警察は軍事部門と比較して、立場が難しかったのかもしれません。

石原  自衛隊の方は部隊として大勢が一か所にまとまっているし、駐屯地がありますからね。それに引き換え、文民警察の方は何人かに分かれて、ほかの国の文民警察と一緒に少人数であちこちパトロールしたり、移動したりしていますから。また、日本では自衛隊派遣に注意が集中した結果、文民警察については議論が足りなかったということもあるかもしれない。文民警察というのは、国連自体もあまり経験の蓄積がある分野ではありません。どういう危険があるのかという事前の予測がしにくかったということはあると思います。ただ一般的な形である程度の危険を予測し得ていたとしても、あの事態を防ぎ得たのかというと、ちょっと難しいのではないかという気もしますが。

山内  日本の政府には、カンボジア警察を教育してほしいというリクエストがあったようですね。

石原  そういうマンデートはありました。要するに現地の警察をUNTACの仕事のガイドラインに沿って協力できるようにコントロールする、強制力はないのですが。当初考えていた任務からの乖離ということであれば、選挙のときに自衛隊が選挙監視員を守るのに情報収集という形をとらざるを得なかったということがありました。日本は相当細かいところまで想定して、いろいろな準備をしたりしますけれども、あのようなオペレーションというのは非常に難しいですね。状況がどう変わるかわからないなかで、大筋の原則に沿って臨機応変に対応していかなければならないという側面がありますから、事前にシナリオをすべて想定して準備をするというのは、現実的なものではないと思います。

山内  国連ボランティアで選挙監視に行った方が手記を書いているのですが、タケオから奥に入るとき、ライフルの準備をしている自衛隊員が「危なくなったら撃ちますから、心配しないでください」と言ったそうです。これが、その当時凍結されていたPKFの武器使用に該当したのかどうかは疑問がありますが、とにかく、「そのように言ってくれたので非常に嬉しかった」と書いてありました。そういう対応は、いわば現場主義でやっているわけです。考えてみれば国連のPKOというのは、石原さんがおっしゃったような根本的な矛盾があるわけですよ。それは現場で一つひとつ判断していかなければならないことです。

石原  そう思いますね。PKOのマンデートというか、所掌範囲が安全保障理事会から与えられていますから、そこを踏み外すことはできませんけれども、それを踏まえたうえで、現場の状況の変化に、つまり応用問題にどう解答を出していくのかということはすぐれて現場の判断ですし、現場の判断を尊重しないと、そこで仕事をしている人たちが結局、いちばん苦労するということになってしまいますね。

UNTAC後のカンボジアとNGOの遺産

前田  それでは三つめの、シビル・ソサエティの代表としての国際NGOの活動についてはどのようにお考えでしょうか。

石原  日本でもアフガニスタン復興支援の文脈で、NGOの活動がいろいろな形でクローズアップされていますが、国連が人道支援などでNGOとパートナーシップを組んでやっていくということについては、大きなコンセンサスができています。いかにうまく協力関係を築いていくのか、それぞれの持ち味や分業体制、連絡など、効率をよくするためにどうするのかを、いま議論している最中で、シビル・ソサエティの復旧のため、あるいは人道支援をするためにNGOは欠かせないパートナーである。このことはNGO側にも、国連側にも、各国政府にも合意のある点だと思います。

山内  1992年から93年までの変化をみて、カンボジアにおけるNGOの役割は非常に大きかったと思うのです。それはなぜかというと、タイ国境に本拠地のあった三派連合のほうが国際社会で承認されていて、カンボジアを実効的に支配していたプノンペン政権に対しては、西側の多くの国は正式の国交がなかったということです。正式の国交がない状態でカンボジア支援に入っていく際に、非政府的な主体としてのNGOの役割は非常に大きかったと思います。実際には、先行的に入ったNGOをうまく使いながら政府機関がネットワークをつくったのではないか。このために1993年に国民投票が終わってカンボジアの正式な政府ができるのと同時に、NGOの役割が低下したのではないかという印象をもっているのですが、いかがでしょうか。

石原  NGOといってもいろいろなNGOがあります。どのNGOがどこで仕事をしていたのか、どこに着目するのかによって、評価は大きく分かれると思います。UNTACのオペレーションに直接パートナーとしてかかわっていたNGOという点に着目すれば、確かにその活動の規模は、UNTACの活動の終わりとともに多少、少なくなったということはあります。とにかくあのときは、ものすごい数のNGOがいましたからね。国際的なNGOもあれば、カンボジアのNGOもある程度できていました。反面、そういうNGOが残していったいろいろな形での遺産、カンボジアの中で育ってきた人権のNGOを含めると、それこそNGO自体もシビル・ソサエティの種をまいていったという面はあると思います。

前田  カンボジアのNGOの中で、とくに印象に残っている活動について、何かあれば披露していただけますか? JVC(日本国際ボランティアセンター)も入っていましたよね。

石原  JVCも、曹洞宗のボランティアも、AMDA(アムダ)というお医者さんのグループも入っていました。とにかくいろいろなNGOが来ていました。とくに日本のNGOはこれから育っていく段階でしたから、NGOのマネジメント自体についても個々の能力に開きがあるし、どれだけ活動できるかということもずいぶん違いました。NGO自体も現場の経験を積みながら育っていくという側面もあります。UNTACが終わってから、カンボジアに日本がかかわったことによって、日本社会のカンボジアに対する関心が非常に大きくなったと思います。「学校をつくりましょう」とか、「病院をつくりましょう」とか、UNTAC後のカンボジアの社会の建設にかかわっているNGOも増えてきたと思います。

 たとえばニューヨークをベースに活動している日本人の写真家が、アンコールワットなどの写真を撮りながら基金を集め、カンボジアのために子どもの病院を作りました。ヘアデザイナーをやっている私の友人は、1年に1回、その子ども病院にボランティアで行って、病院関係者のヘアカットをしています。彼は、以前からカンボジアに関心があったわけではありません。UNTACをきっかけにして、カンボジアの復興や社会づくりに貢献しようという人たちが増えてきたわけです。これは、UNTACを通じてまかれた種子が、ごく一般の人々の間でも育ってきているということではないでしょうか。

インターナショナル・コミュニティの創出へ

前田  以上のお話をまとめると、国際社会の場で、国民国家の連携とは別の主体の連携、逆に言えば、「そのような別の主体の連携を実体とする国際社会というものができつつある」と感じられているということでしょうか?

石原  まさにおっしゃるとおりで、できつつあると思いますが、「つつある」ということを強調する必要があると思います。

前田  NGOやNPOが自分たちを国際社会の構成要素としてとらえるようになったのは、いつごろからでしょうか。1990年ごろからですか?

石原  大きく存在感が目立ってきたのは1990年代です。ただ、もう少し国際社会(インターナショナル・コミュニティ)について補足させていただきますと、これは国連の文章や事務総長の演説でもいちばん多く出てくる言葉ではないかと思います。国際社会というときの「社会」と、いわゆる日本の社会、アメリカの社会、インドの社会というときの「社会」とは異なるわけです。単に地理的な広がりが違うだけではなくて、社会の質がまったく違います。社会の構成員が国民国家のなかで共通にもっている価値観とか、あるいはそこに根付いている共通の感覚、そういうものがはたして国際社会にあるのかというと、まだできていません。国際社会というのは、一体としての社会としてはまだ未成熟の段階にあって、国連のプロセスというのは、もちろん第一義的には平和をもたらすためにPKO活動をする、人道支援をする、あるいは飢餓に瀕している人たちに食糧を供給するというようなこともありますが、そのプロセスを通じて、国際社会そのものを建設していくという要素も大きいと思います。ですから、どの程度、共同体として一体感をもった社会が構成されてくるのかということによって、逆に国連の能力というのも規定されるのではないでしょうか。

 さきほど言った国家主権の象徴としての軍隊が、国連の一員としてPKOに参加するというところに生ずるギャップの問題も、結局、国家に対する個々の人間の帰属意識と、国際社会というものに対する帰属感というもののギャップではないかと思います。国際社会を成熟したものとして創っていくことによって、いま限界と思われていることも、ある程度そうでなくなっていく可能性もあるのではないかという気がします。

前田  コミュニティを創り出す際には、コミュニケーション面での技術革新が効いてきます。NGOがインターネットを使って、自分たちの情報を提供したり受け取ったりするようになったということは大きいでしょうね。

石原  それは大きいと思いますね。情報を情報として受け取るということと、情報を共有、内在化することによって、一種のコミュニティ、隣人関係を感じうるということです。

前田  要するにコミュニティの存在を共同主観化していくわけですね。

石原  そうです。しかし情報が流通するのは、もちろんプロセスではありますが、単に情報をシェアするだけでは、一体感のあるコミュニティというところまではいきません。重要なのは、情報がグローバル化していくなかで、情報や知識をベースにした価値共同体として、心情的なつながりをもったコミュニティを形成することができるのか、ということではないでしょうか。

前田  90年代の初めから、国連は盛んにウェブを使って情報を提供するようになりましたが、何か決定があったのでしょうか?

石原  広報活動をどうするかという意味での決定はもちろんありましたが、それを促したのは、冷戦の終結だと思います。つまり冷戦時代には、社会主義国は、国連がやろうとした広報活動は欧米の情報のプロパガンダということで手かせ足かせをはめていたわけです。冷戦が終結することによって、そのような制限がなくなったということと、グローバリゼーションとインターネットの登場が機を一にして、国連の広報も新しい情報通信技術を最大限に使っていこうという流れになったのだと思います。

前田  最初の説明で疑問に思ったのですが、国連の予算は年間12億ドルですか? 12億ドルというと日本円で1,400億円ですよね。東京都の予算が6兆円ですから、微々たるものです。微々たる金しかないわけですから、パフォーマンスを上げ、国際的なコミュニティの存在というものをアピールしていくためには、お金を使う以外の別の方法が必要で、そのひとつがNPOの活用ということになるのでしょうか。

石原  国連がNPOやNGOあるいは企業なども含めて、広くシビル・ソサエティと連携しながら、国際社会の創造、発展に貢献していくということだと思います。これは私の個人的な国連観ですが、国連とは国際社会をマネージしていくためのひとつのツール、道具である。国連自体は国際社会の中で、国民国家とは違ったプレーヤーである。それをどのように使って、国際関係をうまくマネージし、国際社会を形成していくのかを考えるのが重要だと思います。

山内  国連というのは、国際社会のガバメントではないということですか?

石原  現実にはガバメントではないですね。ただ、国連を将来できるかもしれない世界政府の雛形だとみる見方はあります。

前田  石原さんは、今後ともPKOについて研究を続けるご予定ですか?

石原  個人的には、国連でPKOに参加して日本に戻ってきたという自分の経験を生かし、日本の国際協力を少しでも進め、もう少し強化していくうえで、微々たるものでしょうが、貢献できることがあればと考えています。

山内  9.11事件のあと、国際テロリズムという別種のバイオレンスに耳目が集まっていますが、PKOが第三世代に入り、日本が継続的に参加するようになっているというのは大きな変化だと思います。他方で、自衛隊の海外派遣については、依然としてアジアに多くの批判があるのは事実です。今後、国際社会のガバナンスの一環として、PKOをあらためて整理しておく必要があるのではないかと感じました。今日は貴重なお話をありがとうございました。

(2002年6月20日政策研究大学院大学にて収録)

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