カンボジアから東チモールへ
石原直紀(政策大学院大学オーラルヒストリー・プロジェクト事務局長)
1992年6月の国際平和協力法の成立を受けて、日本が初めて国連の平和維持活動(PKO)、国連カンボジア暫定統治機構*1(UNTAC)に自衛隊員、文民警察官を派遣してから10年が過ぎた。その間に、国連モザンビーク活動*2(ONUMOZ)と、国連兵力引き離し監視隊*3(UNDOF)に自衛隊員を、国連東チモール派遣団(UNAMET)には3名の文民警察官を派遣している。また、先ごろ国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)の後継PKOとして発足した国連東チモール支援団(UNMISET)には、UNTACの時と同様、自衛隊を施設部隊として680人規模で派遣している。
1990年代の国連のPKOは、さまざまな挑戦に直面し、その変遷の歴史においても、かつてなかったほどの急激な変化を経験した。その変化は基本的に冷戦の終焉に由来するものだが、大きな成果を挙げて、活動内容に新次元を開いたPKOがあった一方で、いくつかの挫折も経験し、その能力の限界をも認識させた。国連発足以来、冷戦期には13のPKOがつくられたが、冷戦後、今日までの12年間に、41のPKOが発足しており、現在も15のPKOが継続している。この数の変化だけを見ても、冷戦後の国連のPKOが大きな変化を経験したことがわかる。しかし、その変化は数のみならず、活動形態においても起きており、今日のPKOは、冷戦時に比べはるかに多様な活動を行うようになってきている。
PKOは元来、国連憲章に規定のない活動である。1948年の第一次中東戦争をきっかけに設立されて以来、さまざまな国際紛争の状況に応じる形で、その活動形態を慣行として定着させてきた。冷戦は国連の安全保障理事会の機能をきわめて限定したものにしてきたし、国際社会の平和と安全の維持という本来の役割を、冷戦下の安保理はほとんど果たすことができなかった。そうした状況の中で生み出されてきたPKOは、主として国家間の紛争において、停戦協定などを前提に、これを監視し、国連のプレゼンスによって、武力紛争の再発を抑止する役割を担ってきた。したがって、それは紛争の根本的解決を通じて、平和の確立を目指す政治、外交努力を補完する役割を担うものであった。
こうした冷戦下の状況を考えれば、安保理が冷戦の頸木から解放された結果、国際社会が、安保理は本来の役割を果たし、PKOもより積極的な活動を行いうる、との期待を抱いたのも自然なことといえるかもしれない。さらに冷戦が国際政治に残したさまざまな問題が、国連に対応を迫るようにもなった。カンボジア問題、ユーゴ問題、ソマリア問題など、多くの地域紛争は、何らかの形で冷戦の影響を受けたものだ。こうした国際状況の変化という大きな流れの中で、1990年代、国連はPKOの領域でも、次々に野心的な取組みをしていくことになる。
その中で日本も、冷戦後の国際社会における平和の維持という仕事に、どのように参加していくべきなのか、との問いを突きつけられる。その問いへのひとつの解答が、国連のPKOへの自衛隊の参加ということであった。
UNTACと1990年代のPKO
UNTACは、冷戦後の1990年代を代表する国連のPKOである。それは二重の意味においてそうであった。冷戦後、国連のPKOが対応を迫られた紛争は、国家間紛争ではなく、ひとつの国の中での内戦が圧倒的に多い。UNTACの役割も、カンボジアの内戦に終止符を打ち、国民和解政府を打ち立てることにあった。もうひとつの特徴は、そうした内戦処理型PKOとして、従来のPKOよりはるかに多様な活動内容をもったことである。さらにUNTACが成功裏にその活動を終えたことにより、その後のPKOのモデルとなるいくつかの活動内容のパターンが確立された。国連のPKOの歴史において、UNTACは当時、その規模において、また活動内容の多様さにおいても先例のないものであった。停戦監視、武装解除、難民帰還支援、人権監視、選挙実施、行政管理、復興支援と、多岐にわたる活動を行う複合型PKOと呼ばれた所以である。
UNTACの活動は、ポル・ポト体制下での悲惨な体験も含め、苦難に満ちたカンボジアの現代史に転換をもたらした。民主的な選挙を経て、国民和解政府をつくり、カンボジア国民が自立して経済復興、国家再建に取り組むための基礎づくりを支援した。
UNTACはまた、日本の戦後史にとっても、ひとつの重要な変化をもたらした画期的なPKOであったといえる。それはいうまでもなく、戦後初めて自衛隊が、PKOへの参加という形で国外に出たことである。もちろん、自衛隊のみならず、警察官、文民がさまざまな形でこのPKOに参加した。しかし、自衛隊の参加に道を開くための国際平和協力法をめぐる審議と法案成立にいたる過程での混乱と困難は、国際社会における経済面での存在感を飛躍的に高めた日本が、その他の面で国際社会にどうかかわり、経済力に均衡する存在感を示していけばよいのかという課題に答えを出すための試練でもあった。それはまた戦後、国是としてきた禁欲的平和主義とでもいうべきものと、冷戦後の国際社会における平和の維持にどのような形で責任を果たしていけばいいのか、という問題にどう具体的に答えるかというテーマでもあったのである。
国際平和協力法の成立を受けての日本の自衛隊、ならびに文民警察官のUNTAC参加は、本隊業務(いわゆるPKF)への参加の凍結や、文民警察官、UNV (国連ボランティア)としての参加者に犠牲者を出したことをめぐる国内での混乱など、いくつか克服すべき課題も残した。しかし自衛隊のPKO初参加は、実際の現地での活動において日本人らしい手堅さを伴った、質の高い仕事を行ったことによって、高い評価を得たといえる。
相前後して参加したONUMOZや現在も派遣が継続しているUNDOFにおいても、派遣人数こそ少ないが、それぞれのPKOでの輸送調整任務や、輸送任務の分野においての貢献を通じて、この分野での経験、ノウハウの蓄積を図ってきている。
一方、1990年代における国連の他のPKOについては、UNTACにおける成果とは裏腹に、ソマリア、旧ユーゴスラビア、ルアンダなどで厳しい試練に直面し、国際社会は、国連のPKOに対する姿勢を90年代冒頭の積極的なものから、急速に消極的なそれに変えていく。このことを端的に象徴しているのが、当時のガリ国連事務総長によるPKOの政策方針の変更である。
ガリ事務総長は、1992年6月に『平和への課題』と題した提言をまとめる。その中でいくつかの提言とともに、平和執行部隊という構想を提示する。それは国連の強制行動を規定した憲章7章の下に、従来のPKO部隊より重武装の部隊による、停戦秩序回復を目的に武力行使を行いうるとする考え方である。
この野心的なアイデアについては、加盟国の間でもその実現可能性をめぐって意見が分かれた。しかしながら、ソマリア、旧ユーゴスラビアにおいて生じた人道危機、紛争への緊急な対応の必要性は、加盟国の間に十分な議論をする時間的余裕を与えなかった。ガリ事務総長の個性的なリーダーシップ・スタイルともあいまって、ソマリアにおいて強制執行は試みられ、そして失敗するのである。さらに旧ユーゴでのPKOの挫折とあいまって、ガリ事務総長は1995年の1月に『平和への課題―追補』において、「平和執行は、現時点で国連の能力を超えるものであり、国連のPKO活動は伝統的な原則を踏まえたものでなくてはならない」と、大きく方針を転換する。
こうした一連のPKOの挫折を経験した国際社会は、冷戦終焉直後の過剰な期待感の反動ともいうべき、PKO無力感に陥っていくことになる。冷静に観察すれば、いずれの態度も、いささか情緒的というべきものである。とはいえ、特に視覚メディアの影響力の大きくなった現代においては、紛争や人道的悲劇に対する人々の態度が、こうした傾向に流されることもまた避けられない現実である、ということにも留意しておく必要がある。
こうして、一時的にPKOへの関心と支援を後退させた国際社会も、次々と生起する地域紛争や人道危機に対応するうえで、PKOが依然として有効であるということに気づくのに、それほど時間はかからなかった。1990年代後半、新たにコソボ、シエラレオネ、コンゴ、東チモールにおいて大型PKOが立ち上がる。また、1990年代前半の国連PKOの教訓は、PKOとは異なる多国籍軍の強制力によって、安保理の承認の下に戦闘行為、非人道的行為を停止させ、治安の回復、維持を図るという新たなアプローチを登場させる。コソボでは、強制執行は多国籍軍に任せ、PKOは警察、行政などの分野を引き受けるという多国籍軍とPKOの分業型のオペレーションが行われている。また、多国籍軍が秩序の安定と回復を図った後で、PKOが任務を引き継ぐという、東チモールに見られる多国籍軍とPKOの連携によるオペレーションというパターンも見られるようになった。PKOとしては伝統的な活動原則を守りながら、PKOの能力で対処し得ない状況については、多国籍軍を活用するという方法である。
もっとも、こうした多国籍軍とPKO活動の分業のパターンが定着しつつある、とするのは早計かもしれない。多国籍軍は立ち上げの迅速性、展開の機動性や戦闘能力においては間違いなくPKOに勝る。しかし、多国籍軍の編成は、PKOの創設以上に困難が伴う場合もある。コソボの場合はNATOが中心になった。東チモールでは、オーストラリアを中心とした多国籍軍が編成された。しかし、多国籍軍が有効と判断される状況において、常に多国籍軍が編成される保証はない。PKOへの参加も、基本的には、加盟国の自由意志に基づく。しかし多国籍軍の場合、その随意性はいっそう高いといえる。また多国籍軍の場合、地域性や派遣対象国との利害関係といった国益の観点がより強く反映しがちである。この点、国際性、普遍性を原則とするPKOよりは、個別的で政治的な動機に左右されがちであることも免れないだろう。東チモールにおける多国籍軍も、地域の諸国を中心に編成された。
東チモールにおけるPKOの中核的部分、すなわちUNTAETは、UNTACと共通する活動内容をもった伝統的PKOであった。同時にUNTAETの前後に、住民による直接投票を管理した政治ミッションであるUNAMET、治安回復のために派遣された多国籍軍のINTERFET、さらに独立後、UNTAETが撤収した後に配備された新たなPKOであるUNMISETと、タイプの異なるオペレーションが連続して活動を展開したという点に特色がある。その意味で1990年代のPKOの変化を反映し、今後の国連のPKOの動向を展望するうえで、多くの示唆を含んだPKOの事例ともいえるかもしれない。
東チモールにおけるPKO
東チモールは、16世紀以来のポルトガルの植民地支配から脱却したものの、1975年にはインドネシアに強制的に併合された。それが冷戦の論理の下、国際社会になかば黙認された形で、長いこと自治権の行使が許されずに放置されてきたわけである。しかし冷戦の終焉、インドネシア国内政治の転換という状況の下に、1999年になってインドネシア政府は、東チモールの将来を決める直接投票を行うことを、ポルトガル、国連との間で合意する。それを受けて、インドネシアの一部として高度の自治を行うか、独立するか、という選択を行う東チモールの住民による直接投票を管理、実施するために、国連は選挙監視団、国連東チモール派遣団(UNAMET)を組織する。UNAMETには日本の文民警察官3名も、UNTAC以来のPKOに参加する。同年8月30日に実施された投票において、東チモールの住民は圧倒的多数で独立を選択する。しかしこの結果に不満を抱く、インドネシアとの併合を望む一部住民は、インドネシア軍部の後ろ盾の下、中心地ディリの破壊、独立派住民への嫌がらせ、殺戮などを行い、東チモールには深刻な人道的危機状況が発生する。これに対して国際社会は、治安に責任をもつといいながら、実効をあげようとしないインドネシア政府の対応に業を煮やし、インドネシアに治安回復を支援する多国籍軍の受け入れを迫る。国際社会の圧力に押されて、インドネシア政府もこれを受け入れ、オーストラリアを中心とした多国籍軍(INTERFET)が派遣され、治安の回復が図られた。多国籍軍が治安回復を達成した後、引き続き東チモールの独立までの統治を行い、国づくりの基礎工事ともいうべき役割を担うPKO、国連東チモール暫定統治機構(UNTAET)が発足する。
PKOとしてのUNTAETは、UNTACに似た複合型のオペレーションである。活動内容に、騒乱時に西チモールを中心に逃れた難民の帰還、統治・行政機構の構築、復興などを含む。UNTACでの統治は、形の上では三派の、実質上は人民党政権の統治機構の上にのり、これを監督しながら象徴的な統治権を行使するという形をとった。しかし、東チモールにおいてはそうした行政のインフラ、人材は存在せず、UNTAETが直接統治を行うことになった。2年半にわたるUNTAETの活動を経て、2002年の5月20日、東チモールは独立を達成する。東チモールの平和構築には依然として長い道のりがあるとはいえ、UNTAETの活動はこうしたタイプの国連のPKOに、もうひとつ実績をつけ加えたといってよい。
また、UNTAC撤収後、カンボジアに置かれた国連プレゼンスは、PKOではなくごく小規模の政治オフィスだった。これに比べて東チモールでは、独立後も軍事部門を中心に、東チモールの治安維持、警察、司法機構設立支援のため大規模な国連東チモール支援団(UNMISET)が後継PKOとして、引き続き活動を展開している。UNMISETの任務は、(1)東チモールの政治的安定にとって重要な行政組織への支援、(2)暫定的に司法、治安維持の任に当たるとともに、東チモールの司法、警察機構設立支援、それに(3)国内、対外関係における安全保障などである。そしてこのUNMISETには、女性隊員7人を含む日本の自衛隊が、UNTACにおけるのと同様、施設部隊として参加している。部隊の任務はUNTACの時と同様、道路や橋の補修、建設といった交通網の整備である。活動期間は、当初の予定では1年間とされている。
さらにここで、1990年代のPKOのもうひとつの特徴であるNGOとの協力、連携の拡大、強化について触れておきたい。特にNGOが人道支援等の分野で、現場における支援活動の担い手として不可欠な存在になっているということは、衆目の一致するところだ。東チモールで生じた人道危機に際しても、多くのNGOが現場で難民を含む東チモール住民に、食糧、水、防水シートなどを配布し、医療活動などを国連機関と連携して行った。こうした活動はUNTAETが展開してからも続いており、ユニセフ(UNICEF)や国連世界食糧計画(WFP)などの国連機関の活動とも連携して、特に水、衛生、食糧配給、基礎的保健などの分野で、国際NGO、地元のNGOの双方が東チモールの平和構築、社会再建、復興開発に積極的に取り組んでいる。このようにさまざまな形で国連機関と連携、協力してのNGOの活動は、コソボをはじめ、その他のPKOの現場でも行われており、もはや、きわめて当然なPKOの風景の一部となっているのである。
NGOとの協力は現場のレベルにとどまらない。国連の人道支援局を中心に、国連機関、NGOそれぞれがもつ経験や情報の交換、また人道支援の政策、現場での活動の調整など、さまざまなテーマについて意見交換をするメカニズムが確立している。もちろん、個々のNGOにはNGO自身の目的とアプローチがあり、それが政府や国連のそれと異なるのは当然なことである。またNGOの規模、能力も千差万別である。しかしながら、それぞれの特色を生かしながら、目的の共有される活動分野において、PKO、国連機関とNGOのパートナーシップは、今後ともいっそう強化されていくことは疑いない。
今後の課題
冷戦後のPKOは、その可能性と限界、両面において多くの貴重な教訓を残した。今後も伝統的な活動原則に立脚したPKOの需要は、決して減ることはないだろう。しかしそれはPKOの活動内容やあり方が、従来の方式に固定されたということではもちろんない。PKOのマネージメント、人、資金、機材など、PKOを支えるリソースやインフラの面での改善の余地は大きい。2000年3月にアナン事務総長が設立した国連平和活動検討パネルは、国連の平和活動に関し包括的な検討を行い、いわゆるブラヒミ・レポートと称される報告書において、そうした面についてさまざまな提言を行っている。その内の一部はすでに実行に移されている。
基本的にPKOの能力を決定するのは、加盟国が提供する人、資金や機材、それに困難な局面でもPKOへの支援を継続しうる加盟国側の政治的意思といってよい。その意味で、加盟国、国連双方が、それぞれの責任領域においてPKOの能力を強化する努力を行うことによって、PKOのパーフォーマンスを向上させ、ひいては国際社会のPKOへの信頼を高めていくことが必要である。
また日本も、これまでに参加したPKOの経験を貴重なアセットとして蓄えたはずである。一口にPKOへの派遣といっても、役割はいろいろである。UNTACとUNMISETで日本が参加している施設部隊の仕事、ONUMOZやUNDOFで経験している輸送調整業務や運送業務、さらには通信、医療業務などさまざまである。水準の高い医療部隊、コストの嵩むヘリコプターや飛行機をパイロットとともに提供する空輸支援など、提供できる加盟国が多くない業務分野もある。こうしたことを考えると、今後のPKO参加の課題として、できるだけ広い活動分野に参加するとともに、得意分野をつくっていくことも意味のあることかもしれない。幸い昨年の12月に成立した改正PKO法は、それまで凍結されていた、いわゆる本体業務(PKF)への参加にも道を開いた。これによって部隊として停戦監視、武装解除といった業務にも参加できるようになった。多様な業務分野、アジアに限らずさまざまな地域のPKOに幅広く参加していくことが大事である。そうした経験を積むことが、PKOの現場での活動のみならず、それを国内で支える的確な政治判断や危機管理の能力を向上させていくことにもつながっていく。こうして実績を積み、見識を高めることによって、国連でのPKO論議にも、存在感をもったプレイヤーとして参加していくことが可能になるのではないかと思われる。
*1 600人規模の施設部隊、さらに幹部クラス8人の陸上自衛隊員が停戦監視要員として、二次にわたって派遣された。また文民警察官として75人が派遣された。
*2 司令部業務5人、輸送調整業務48人の自衛隊員が派遣された。
*3 司令部勤務2人が二次にわたり、輸送部門に48人が三次にわたり派遣された。さらに連絡、調整要員として4人から6人が派遣されている。