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Center for Global Communications,International University of Japan

智場、GLOCOM Review、コラム…


 

ギネスの国アイルランドのブロードバンド事情

土屋 大洋(GLOCOM主任研究員)

ギネスの国

 ギネスをご存じだろうか。そう、スタウトと呼ばれる強い黒ビールである。あるいは別の名前でご存じかもしれない。あらゆる分野の世界記録を記載した『ギネス・ブック』というのがある。ビールのギネス社がこの本を毎年発行しているのだ。

 ギネスはアイルランドの国民的飲み物だ。アーサー・ギネスという人が、18世紀半ばに売り始めたらしい。ダブリンの町中のアイリッシュ・パブでおいしいギネスが飲める。土産物屋にもギネス・グッズがあふれている。ギネス専用の1パイント(約0.57リットル)グラスをはじめ、レトロな宣伝ポスターが所狭しと置かれている。

 ギネスには飲み方の作法があるようだ。パブのカウンターでギネスを頼んでも、日本の生ビールのようにすぐには出てこない。カウンターの向こう側のおじさんがゆっくり、ゆっくりとグラスに注ぎ足していく。ようやくこちらに渡されてもすぐに一気飲みなどしてはいけない。泡がそろそろと浮き上がり、ジョッキの上方、5分の1ぐらいにきめの細かいクリーム状の泡の層ができる。このクリームが整ってから、4口で飲む。一日の仕事を振り返りながら、あるいは友人と語らいながら(パブはまだ女性が好んで行く所ではないらしい)、一晩で5パイントから10パイントも飲むのだ。

 アイルランドは、言うまでもなくイギリスの左側の島国である。しかし、島の北側はイギリスの一部になっている。もともとアイルランドは、紀元前4世紀ごろに渡来したケルト人たちの島だった。5世紀にキリスト教が入ってきて、今でも90%がカトリック教徒だ。アイルランドの歴史はイギリス支配への抵抗で埋め尽くされている。12世紀から1922年に独立するまで、実に800年もの間、イギリスに支配されたからだ。16世紀にイギリスは国教会を成立させ、アイルランドのカトリック教徒たちを抑圧した。

 イギリス支配の間に、イギリス人たちがアイルランドに入植し、特に北アイルランドではイギリス人たちが多数住みついてしまった。アイルランド独立に際しても、北アイルランドはイギリスに残されてしまったために、今日まで続く北アイルランド紛争が起きている。

 アイルランドの人口は実はたった380万人である。かつての支配者イギリスは約6千万人である。これではかなうはずもないと思うが、実態はやや異なる。イギリスの圧政や、繰り返し起こった疫病・飢饉のために、大量の移民がアイルランドからアメリカなどに渡った。最近人気のアイリッシュ・テノール3人組が歌う「エリス島」によると、アイルランドから移民受け入れ施設があったニューヨーク沖のエリス島へ、1,700万人が渡ったという。現在、アイルランド系人口は全世界で7千万人に達する。

ソフトウェア大国からの脱皮

 アイルランドは、実はソフトウェア大国である。ヨーロッパで販売されるソフトウェアの8割がアイルランドから出荷されている。公用語がアイルランド語と英語で、英語能力に不自由しないのは言うまでもなく、国の税優遇措置によって外資系企業がたくさん入ってきている。マイクロソフトやオラクルといったソフトウェア大企業が、ヨーロッパの拠点をアイルランドに置いているからである。

 しかしブロードバンドという点では、アイルランドは後進国だ。彼らがよく口にするのが「OECD(経済開発協力機構)の30カ国中ブロードバンドの普及率は27位」という数字だ。アイルランドの下にはギリシャ、トルコ、スロバキアだけだ。ここから脱却したいというのが、政府と民間が共通して持ち始めている課題である。

 これを実現するために、まず政府は法制度の改革から始めた。通信政策を管轄するのは公共事業省だったが、通信・海洋・天然資源省へと移した。そして、通信規制を担うODTR(Office of Director Telecom Regulations)が新通信法案を作り、今年3月に議会に提出された。郵便、テレビ、インターネット、電気通信を融合させようという野心的な法案である。

 政府は、デジタル特別区をダブリン市内に作ろうとしている。あわせて、アメリカのボストンにあるマサチューセッツ工科大学(MIT)のメディア・ラボをまねて、ヨーロッパ版メディア・ラボをデジタル特別区に併設している。

 この特別区を中心に、ダブリン市内に光ファイバ網を張り巡らし、ブロードバンドを市民や企業に提供しようという計画もある。ダブリン市内で道路をやたらと掘り返しているのはそのためらしい。

 アイルランドのNTTにあたるのは、エアコムという電話会社である。EUの指令(実質的な法律)によって各国の電話会社は回線開放を義務づけられているのだが、エアコムはなかなかこれに応じようとしていない。この状況を変えるためにも特別区と光ファイバ網は重要な施策だ。

 アイルランド政府はいくつかの自治体と協議し、自治体が光ファイバを所有することを奨励している。実際のファイバの敷設作業はエアコムと協力してやるものの、ファイバを所有するのは自治体である。ダブリンでうまくいけば、同じ料金で使えるようにしながら周辺の19の町に拡大し、その後56の町に拡大し、やがて全国にこの試みを広げていきたいという。光ファイバ網の建設コストの90%が、ネットワークのデザインにかかっている。うまくデザインすれば、より多くの人がファイバのリングに接続することができる。さらに、電力事業者がファイバを提供する計画もある。

 アイルランド政府は、こうした施策を始めるにあたって、各国の政策をよく研究した。カナダ、シンガポール、日本、韓国の状況もよく知っている。一番参考にしたのは、スウェーデンのストックホルムで展開しているストーカブのようだ。ストーカブはストックホルム市とストックホルム郡が所有する公社で、ストックホルム市内に光ファイバ網を構築し、利用者に開放しているのだ。

 アイルランド政府のねらいは、定額制のブロードバンドをリーズナブルな価格で提供したいということにある。昨年、アメリカをはじめとして各国でITバブルがはじけてしまい、市場の小さいアイルランドもその影響をもろに受けた。そのためにDSL市場の立ち上げが遅れた。政府がいろいろ企画しても、経済悪化のためにやる人がいない。そこで補助金を出すことにしたのだ。

消費者の視点

 政府の試みを消費者はどう思っているのだろうか。アイルランド・オフラインというNGOの主宰者に会うことができた。デイビッド・ロング氏は大学院でITについて学んだ後、アイルランドのITがきわめて遅れているということに気がついた。「アイルランドはブロードバンドに接続されていない」という意味で、アイルランド・オフラインという組織を作った。アイルランドのインターネット普及率は34%ぐらいだ。しかし、ブロードバンドになると、2002年5月の時点で、ケーブル・モデムの利用者は300人、DSLの利用者はまだ統計になっていないという状況である。

 ロング氏は始まったばかりのDSLサービスに、月額110ユーロ支払っている(約1万3,000円)。しかし、スピードは500kbpsで、毎月のデータ通信量が3ギガビットまでという上限がついている。これでは一般の人が使うわけがないというのが、ロング氏の主張だ。日本では12MbpsのDSLが始まり、100Mbpsの光ファイバサービスが始まっていると言うと、「みんな何に使ってるんだい」と、ため息混じりに聞いてくる。

 実質的に独占事業体であるエアコムは、DSLに関するテストを繰り返し、DSLサービスの展開を遅らせようとしているとロング氏は批判する。回線を他社に開放するための卸売り価格は当初79ユーロ(約9,500円)だったが、ようやく49ユーロ(約5,800円)まで下がってきた。しかし、市場を刺激するにはまだ高すぎる。

 ロング氏は専門知識を武器に、政府とエアコムを教育しようとしている。自治体を支援するという政府の政策はいいとしても、現実には何も起きていない。規制緩和計画の中でDSLの開放が項目から落とされたことは問題だという。

 政府の官僚主義が問題とすれば、エアコムの何事もゆっくりスムーズに進めるという「ロールスロイス・メンタリティ」も問題である。エアコムはDSLに怯え、市場がないと言い続けている。エアコムは、キラー・アプリケーションが出てくるのを待っているだけで、それが見あたらない現状では立ち止まってしまっている。

ネヴァダ社

 では、ビジネス市場はどうだろうか。ネヴァダとコルトという2社を訪れた。

 ネヴァダ(Nevada)という名前は、アメリカのネヴァダ州のことではなく、「NEtwork VAlue-added DAta」のことだそうだ。CEO(最高経営責任者)のレスリー・ハリス氏は、イギリスのブリティッシュ・テレコム(BT)で1994年までディレクターをしていた。その後は香港でケーブル・テレフォニーの仕事や、日本でケーブルテレビのタイタスの仕事をしていた。個人的な理由でヨーロッパに戻り、パリ、ベルリン、ジュネーブ、ブタペストなどでGTSという会社のために働いた。そして、夫人がアイルランド出身のため、アイルランドで自分の会社を立ち上げたという。

 ネヴァダは、9月からイギリス領の北アイルランドでDSLサービスを提供する。BTの卸売りサービスを再販する形だ。エアコムと同じで、BTはテストばかりを繰り返し、なかなかサービス提供に応じないらしい。顧客は一般消費者ではなく企業である。しかし、アイルランド側では同じサービスを提供できないという。エアコムがBTほど卸売りサービスに慣れていないからで、まだビジネスとしては成り立たないという。

 ただ、ダブリンで政府が構築している光ファイバ網ができれば、ビジネスチャンスが広がると期待する。これがうまくいけば一般消費者向けにもDSLサービスを展開できるかもしれない。しかし、光ファイバのリングを作るだけではあまり価値がなく、POP(Point of Presence)と呼ばれる接続点をどうやって作るかが命運を分けるという。つまり、誰でもその光ファイバ網につなげるようにする「スモール・キャリア・ホテル」が必要なのだ。ここにさまざまな事業者が自社のネットワークと接続させ、エアコムのネットワークとも接続させることで、ネットワークが広がりを持つようになる。

 さらに、「部分的私有回線(Partial Private Circuit)」が重要であるという。つまり、事業者だけでなく加入者個人が回線を所有し、POPまでの回線を自分でデザインする。自分でデザインして所有する分、安くなるし、自由度も増す。利用者がエンド・ツー・エンドで回線をつなぎ、そのうえでデータ・サービスだけでなく音声サービスもできるようにする。新通信法が通ればエアコムの経営とサービスにも変化が出て、今年12月には可能になるのではないかという。

 アイルランドの町は小さい。メインストリートでも半マイルしかない。小さな町のネットワーク化は2万5千ユーロ(約300万円)あればできる。市街地から離れた農家などは通常は接続できないが、地域ネットワークを市街地に光ファイバで構築して、その先はDSLでつなげば可能である。ある程度人口があるところでは光ファイバ網と公的なPOPを構築し、そこから拡大させていけばいい。

 しかし、ハリス氏の口からも、政府とエアコムに対する辛口の批判が聞かれた。つまり、政府はもっと効率的なやり方を探し、エアコムの独占を取り除けというのである。民間部門はビジネスを提供したくても基になる資金がない。エアコムは国策会社なのだから、エアコムの利益ばかりを追求するのではなく、民間部門のサービスを支援すべきだという。

コルト社

 一方、コルト(COLT)社は異なるアプローチをとっている。コルトとは「City Of London Telecommunications」の略で、最初はロンドンでビジネスを始めたが、今は拠点をダブリンに移している。

 マーケティングとビジネス開発のマネージャーであるマーク・クロケット氏は、企業相手の光ファイバビジネスに特化しているという。しかし、コルトはアイルランドの枠を飛び越えて活動している。基幹となるビジネスは金融サービスのための都市間ネットワークである。ヨーロッパの金融の中心であるフランクフルトを核とした専用線のネットワークを引いている。

 コルトはあくまで自社のネットワークにこだわる。自前のネットワークを構築すれば通信事業者に利益を分け与える必要はない。コルトのビジネスは、いわばどれだけ早く道路に穴を掘れるかにかかっている。安く、すばやくパイプを引くことで競争が促進される。エアコムが光ファイバのビジネスに消極的であるために、エアコムよりも先にネットワークを提供できればビジネスチャンスがある。エアコムがぐずぐずしている間にコルトは稼ぐことができる。

 道路を掘るということは資産に投資するということになる。ゼロに近いロー・マージンの時代を生き残っていくには、自分で所有して、投資して、管理することが必要で、さらにそれを都市間で接続するのがコルトの戦略である。たとえば、マイクロソフトがアイルランドに来たとき、巨大な帯域が必要になった。オラクルは都市間トラフィックの需要をもたらした。この需要をいかに埋めるかが課題になった。

 クロケット氏は、アイルランド政府がアメリカのグローバル・クロッシング社と交渉して、大容量の国際光ファイバを敷設させたことを高く評価する。このファイバによって国際通信が底値まで下がり、その結果、都市間通信が可能になった。

 コルトのビジネスのやり方は攻撃的だ。思い切ってエアコムから既存の設備を買ってしまうこともある。エアコムはなかなかネットワークを売ってくれない。しかし、ネットワークを売ってくれれば、エアコムは投資した分をあっという間に取り返すことになる。エアコムにとってもいい取引のはずだ。コルトは倒産した会社の通信設備もすぐに買ってしまう。あるいは、ネットワーク接続に便利な場所での利用権を獲得できれば、「さらにお金を払うから他の事業者を入れさせないでくれ」と言うことも戦術の内だという。

 こうしたビジネスのやり方のモデルとなったのは、最近不正会計で話題となっているアメリカのワールドコム社だという。ワールドコムは会計では問題を起こしているが、アイルランドのような生成期の市場ではそのビジネスモデルが生きているとクロケット氏は強調する。

 コルトの収益は、ネットワークの構築とそのマネージメントからもたらされる。コルトの管理するネットワークで問題があれば、24時間365日のサービスで、どこであろうと4時間で解決してしまう。ダブリンなら2時間でやってしまう。光ファイバのメンテナンスは電話のネットワークよりもはるかに簡単で、メンテナンスの人員はそれほど必要ない。

冷めた見方

 上記のような人々の熱意に感心しながら、tif(telecommunications and internet federation)という業界団体に話を聞きに行った。しかし、ここでは意外にも冷めた見方に触れることになった。

 tifで政策問題を担当するデイビッド・ヒーリー氏は、アイルランドは小さな周辺的市場に過ぎないという。その市場も固定網に関しては成熟してしまっており、消費者は競争がないと思っている。消費者向けのサービスという点ではエアコムの競争相手がいない。唯一の競争者といえるのがイギリスとアイルランドでケーブルテレビを展開しているntl社だ。しかし、ntlのカバレッジは限定的で、60万人程度が使えるようになっているだけだ。さらに悪いことには、経営悪化のために会社更生法の申請をしているのだ。これでは競争にならない。

 韓国政府はハナロという第二の通信会社を作ることでDSLサービスの需要掘り起こしに成功したが、そうしたアイデアをアイルランド政府は持っていない。電力会社が光ファイバを提供しようとしているが、企業向けで、家庭用サービスには興味を示していない。

 かつては電話サービスで定額制のサービスがあったが、インターネットのダイヤルアップが行われるようになると、エアコムはそのサービスを引っ込めてしまった。今では定額制のサービスがない。

 政府はデジタル特別区のような施策で供給が進めば、需要が追いついてくるというサプライ・サイドに偏っているとヒーリー氏は批判する。ラストマイルの問題が解決されていない限りは、今後の行方には懐疑的にならざるをえない。tifは「ブロードバンド・アイルランド」という包括政策に関して幅広い合意を得ようと画策しているが、政府との対話が機能していない。政府はストーカブがいいモデルだと考えているが、ダブリンはストックホルムほど大きくもないし、ダークファイバの利用料が高止まりしている。

 アイルランドはソフトウェア大国だが、アメリカのシスコのようなネットワーク機器メーカーも、パソコン機器メーカーもない。ソフトウェアも輸出向けばかりで国内の需要創出にはつながっていない。アイルランドのセールスポイントは高い教育水準だが、それでも大国に勝てるわけがないというメンタリティが支配的だと、ヒーリー氏はあくまで悲観的なのだ。

危機感とライバル心

 確かに言えるのは、現状のアイルランドのブロードバンド市場はうまくいっていないということだ。料金は一般の人が払える水準ではない。しかし、多くの人々がブロードバンド普及に努力していることがうかがわれた。

 ブロードバンドの普及には、技術や政策などいろいろな要因がかかわってくるが、社会的危機感やライバル心も重要ではないかと私は思っている。韓国が伸びたのもアジア経済危機に伴う社会的危機感があったからだし、カナダが官民でブロードバンドに投資しているのも、アメリカとの格差拡大と国内の教育格差拡大を埋めるためだ。日本のDSL市場が急拡大した背景には、韓国でできることがなぜ日本でできないのか、という思いがあったのではないだろうか。

 ところが、アイルランドのライバルであるはずのイギリスのブロードバンドが進んでいない。実はアイルランドに行く前に、イギリスでも同様の調査を行った。イギリス人自身はブロードバンドで進んでいると思っているのだが、アジアやカナダ、北欧と比べると明らかに遅れている。人口6千万人のところ、今年中にブロードバンド利用者が100万人になればいいというのである。とすると、アイルランド国民がブロードバンドに熱を上げるのにはもう少し時間が必要かもしれない。

 「どうして進まないのかな」という私の質問にある人が答えた。「ギネスがあるから幸せなんだよ」。そうかもしれない。北アイルランド紛争からイメージするアイルランドはギスギスした殺伐なものだった。しかし、北アイルランドのベルファストではそうかもしれないが、ダブリンの人々の表情は穏やかで、イギリス支配の中でも脈々と受け継がれてきたアイルランド文学、音楽、ダンス、そしてギネスで十分に幸せを見いだしているようにも見える。

※本稿は国際社会経済研究所との共同研究「ブロードバンド時代の国家変容」の一環として行われた調査に基づいている。

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