デジタルの力をてこにして他国に信頼されるために
−ルパン、論判、いいジャパン−
中野 潔(GLOCOM主任研究員)
威嚇、遠隔、無感覚
筆者がその内容の多くを評価するというわけではないのだが、政府が2001年6月26日に発表したe-Japan 2002プログラムという政策がある。この基本的方針5項目のうちの2番目が「教育情報化・人材育成の強化」である。これの親項目に当たるのが、2001年の3月29日に発表された e-Japan重点計画の5項目(もう一つ、横断的な課題というのを含めると6項目)のうちの2番目の「教育及び学習の振興並びに人材の育成」。
e-Japan 2002プログラムには、基本的方針のほかに、分野別施策というのが列挙されている。ややこしい話だが、教育や人材育成に関するいくつかの項目は、6月に発表された基本的方針の一つである「教育情報化・人材育成の強化」の子供項目としてではなく、3月に発表された重点計画の一つである「教育及び学習の振興並びに人材の育成」の子供項目として列挙されている。この子供項目、3項目のうち3番目が「専門的な知識または技術を有する創造的な人材の育成」であり、さらにその下の孫項目に当たる6項目のうち4番目が「アジア共通のスキル標準を踏まえたコンテンツの提供を行いe-Learning(遠隔教育)の普及を促進する」である。
この春、外務省関連では外交機密費の流用や私用着服が問題になり、旧文部省関連ではいわゆる「つくる会」の教科書の内容変更問題が韓国などとの外交問題を生み、地方自治と旧建設省関連では土建により地方に国の金を落す(実際には国の補助金に比例して県費の支出も増える)という構造が長野県知事などにより否定された。他者からの視点も相対化して受け入れた上で自分の国の歴史を直視してしまうと自分の国を尊敬できなくなる――というのは、貧しい考えだ。こうした貧しい心根の、自分の国の人々の包容力を信じられない自虐的な人々による教科書の編纂は、他国に対する威嚇の一種とさえいえる。機密費問題でも長野県のダム建設問題でも、反対勢力を威嚇する人々が目立った。もっとも、長野県庁の記者クラブ開放に際して、開放すると公正な報道ができなくなると反対した大新聞も、同じ穴のムジナである。そして、他国への威嚇を威嚇と思っていない無感覚の横行――。
細工、教育、美辞麗句
ODA(政府開発援助)では現在のところ、種々の制約により、いわゆる「箱物」援助が中心となっている。しかし、早晩、箱物では限界がくる。同じ箱でも、箱根細工の仕掛け箱の技能のような、職につながる技ならありがたかろうが、何億円か掛けたビルに、何千万円かの高価な機械を据え、使い方を教えても、現地の要求とは合わずに使われず、補修部品の取り寄せルートがないので何年もしないうちに壊れてさびてしまう――。こんなODAプロジェクトによる無駄使いが繰り返されてきた。美辞麗句を連ねることで、相手国の政府首脳の覚えがめでたくなるかもしれないが、相手国の民衆に感謝される活動には、なりえない。
筆者が次代のODA項目として期待するのが、広義の教育、研修関連のコンテンツ充実だ。もちろん、集合研修も大事だが、限られた予算と人員で、何万人、何十万人という人々の研修を遂行することはできない。講師の講師のみを集合研修で育て、一方でe-Learning向けを中心としたデジタル化された教材を充実させれば、比較的経験の浅い講師でも、そうしたデジタル化された、標準化された教材を使って各地で集合教育ができる。また、通信環境が次第に整ってくれば(アジア各国の通信環境は、急速に日本を追い抜くのではないか)、講師を派遣することもなく、山中や海岸べりや離島であっても、一定品質の研修が提供できる。
公文俊平氏の『情報文明論』によれば、近代は「威のゲーム」の時代から、「富のゲーム」の時代へ、そして「智のゲーム」の時代へと移りかわってきた。発展途上国を軍事力を背景に従わせる時代から、金の力にものをいわせる時代に、そして、智を基本にした相互作用をもって自国を信じてもらい、協力関係を築いていく時代へ――。国の存在感、自国民の充実感を確立する原理が確かに変わりつつある。
電子、遺伝子、白眼視
手元に、アメリカの独立記念日にあたる2001年7月4日付の京都新聞夕刊がある。いずれも産業スパイ容疑に絡んだ、二つの記事が並んでいる。一つ目は、理化学研究所の研究員による遺伝子スパイ容疑事件に関するものだ。「米政府が日本政府に対し、主犯格とされるA研究員の身柄引渡しを非公式に要求し、日米両当局が接触を始めた」という事実を、米連邦検察当局が3日、はじめて明らかにしたという。
この記事に接して左下に、同じ4段抜きの見出しで、英米連合の通信傍受機関「エシュロン」の存在を確認する最終報告書をEU議会が提出したという記事が載っている。3日、EU欧州議会の特別委員会が、以下で述べるような内容の最終報告書を、賛成多数で採択した。すなわち、米、英、加、豪、ニュージーランドの5ヵ国が秘密協定のもとで共同運用し、企業や個人の情報収集に使用しているといわれる、世界を覆う通信傍受網「エシュロン」の存在を確認するという報告書である。
報告書は、エシュロンの存在に疑いの余地はないと断じている。日本の三沢基地など世界10ヵ所あるいは11ヵ所の米軍施設に設置されている大型パラボラアンテナは軍事には不必要で、民間通信の傍受用と考えられるとした。
エシュロンは、世界を飛び交う一日数億通の電話、電子メールを、衛星通信や海底ケーブル通信やマイクロウェーブ通信や盗聴機によって集め、特定のキーワードによって、スクリーニングし、何重にもわたって、絞り込んでいくことで、チェックしているという。7月6日付の朝日新聞朝刊の「私の視点」に楡周平氏が寄稿したところによると、英国のメンウィスヒル基地にあるエシュロンの拠点だけでも千人以上の米国人が働いているという。直接の通信文モニター要員が世界に千人いるとしたら、一日千通として計百万通は、人手のチェックに近い調査の対象になることになる。
本来、豊かな世界を築くためであったはずの叡智を、幾千里を隔てた陣営間の反目のために使おうとする、ヒトの愚かな姿がここにある。
徒長、盗聴、特許庁
エシュロンの母体は、早くも1948年に「電子情報交換のための秘密協定」として、前述5ヵ国で締結された協定だという。当初は、軍事目的だったが、冷戦終結後は、産業スパイ組織になったらしい。最初から「電子情報」を対象にしていたらしいが、それでも、一日に億単位の通信が扱えるようになったのには、近年のコンピューターの発達が寄与しているのだろう。
遺伝子のDNA配列の解読も、「コンピューターをぶん回す」ことで進める点では、エシュロンに似ている。こちらは、グアニン、アデニン、シトシン、チミンの四つの塩基の並びなので厳密には2進法ではない。しかし、塩基を三つ並べることで生じる計64の組み合わせを、冗長性をもたせて約20のアミノ酸に対応させ、このDNAの塩基配列を設計図としてアミノ酸を並べていくという仕組みは、コンピューターのビット列の仕組みとほぼ同じといってよかろう。
バイオインフォマティクス(生命情報学。本来はDNAの塩基配列解読に的を絞った概念ではないが、現在は、そこに注目が集まっている)の研究では、まずヒトやコメの数億ビット(正確には4進法のようなものなのでbitでなくquaditだろうが)に及ぶ塩基配列を解読する。次に、そのうち約3万あるといわれる遺伝子(生物のDNAでは役目がわからない配列が大部分を占めており、役目のある連なりだけが遺伝子と呼ばれる)に相当する部分を明らかにする。特定の塩基配列の効用を明らかにすれば、特許として認められる可能性が高い。つまり、人間の営みを含め、生物には、徒長枝を典型とするような冗長部分が多いのだが、これを取り去って肝要な部分だけを明らかにすれば、近代技術の枠組みと経済システムに載るのである。
自然物の効用発見者に特許を認めるのは、薬用成分の同定について想定できる、次のような論議による。すなわち、ある病気に効くと民間療法でいわれている薬草について、多大な人知を投入して、まず数千も含まれるであろう各種成分を抽出し、その中から、生物実験を重ねて、その効いている成分を割り出し、その成分がなぜ効くのかを解明し、その仕組みを特許化する――。これは、民間療法へのただ乗りと見られかねないが、実際には、知恵と工夫とを注ぎ込んだ、高度な知的創意を必要とする行為である。この叡智と努力の成果を「高度な創意工夫」と認めて守らないとすれば、製薬の研究などばかばかしくて誰もしなくなるではないか――。
エシュロンもバイオインフォマティクスも、意味のなさそうなビット列から、意味を持ちそうな個所を取り出して精査するという手順において、よく似ているのだ(バイオインフォマティクスについては、『出版レポート』の拙著連載で触れたことがある)。
スパイ、スパイス、スパイラル
もっとも、この民間療法から精査し、仕組みを解明した科学的、技術的成果の特許化については、発展途上国から異論が出ている。知的財産権に関する学術の世界では、広義の「フォークロア」と呼んでいる問題である。詳しくは、『知的財産法制と国際政策』(高倉成男著、有斐閣、2001年6月20日刊)が参考になる。
朝日新聞の2001年6月21日付朝刊に、[薬用植物の宝庫熱帯雨林 マレーシアで新「南北問題」]という記事が掲載された。薬草などに関する先住民の豊富な知識などを、科学的に精査し、必要に応じて特許にしたりする先進国に対し、発展途上国が先住民の知識の権利を主張し始めたというものである。
フォークロアは、狭義には、ある社会集団の構成員が共有する有形(絵画、彫刻、織物など)、無形(民話、民謡、神話、儀式、舞踏など)の文化的資産のことをいう。集団の中で、口伝えなどで伝えながら、一回転ごとに少しずつ、ほんのわずかに進むスパイラル(螺旋)のように進んできた。容易に想像できるように、著作者など特定できない。しかし、これでは近代著作権法の保護が受けられない。一方、民俗舞踊を近代資本が映画に撮れば、映画の著作物として近代資本の側は保護を受ける。民話をディズニーアニメにすれば、民話に著作権はないから、ディズニーの著作物として守られる(日本のここ十数年内の、立派に著作権の存続している作品にきわめて類似した作品を作って、シラを切り通すこともあるようだが)。
先進国に対抗できる知的資産として、民俗的文化資産や、食物や薬草や建造などの分野での動植物、鉱物関連の知恵ぐらいしかない途上国にとって、この制約は厳しい。胡椒に代表されるスパイス探しが、ヨーロッパの大航海時代の始まりの理由の一つにあげられるように、その土地土地でしか得られない第一次産業生産物というのは、対外交渉の切り札の一つだった。
もっとも、15世紀、16世紀、17世紀には、ヨーロッパは、環インド洋諸国に対して後進国であった。第一次産業生産物だけでなく、インド木綿とその染色技術のように、第二次産業生産物(多分、家内制手工業のレベルだったと思うが)の技術でも負けていた。川勝平太によれば、英国がインド綿花に品質、価格で勝てるようになったのは、ようやく、米国での長繊維綿花の発見と、1779年の細糸紡績機「ミュール」の発明によってであったという。「産業革命とは、まさにインド木綿のコピー商品を作ろうという事から始まったのである」と、川勝は言う(『日本文明と近代西洋─「鎖国」再考』川勝平太、NHK出版、1991年)。
探検家が、植物の種を、死を覚悟で隠して母国に持ち帰ったという話はよくある。知的財産権の概念が確立される前には、先進の中東世界とアジア世界の知的成果をヨーロッパがスパイして、コピーしていたのだ。
胡散、計算、アミノ酸
エシュロンと遺伝子スパイ容疑事件とが並んだ京都新聞記事の2ヵ月前、2001年5月11日、同じくいくつかの新聞で、遺伝子スパイ容疑事件とエシュロン関連の記事が、紙面をとりあった。遺伝子スパイ容疑事件については、米連邦大陪審がA被告らを起訴したニュースそのもの。エシュロンについては、エシュロンに関して調査するため、米国の安全保障局、CIA、商務省、国防総省などの面会を求めたEU議会の調査団に、これらの米国役所がいっさい会わずに追い返したという報道である。自分の産業スパイ疑惑には、ほおかむりを決め込んだ同じ日に、日本の産業スパイ疑惑をことさら大げさになるような、滅多に使わない大陪審という仕組みで告発したのである。
さて、日付の似ている1959年5月13日、琉球米民政府は、布令23号「琉球列島の刑法並びに訴訟手続法典」を公布した。米政府の謀謗、敵対行為などを扇動する言論に対する罪などを新設した。スパイ行為、治安妨害、扇動行為などに死刑を含む厳刑を科すという厳しいものだった。前述の「威のゲーム」、「富のゲーム」、「智のゲーム」の近代3分割説でいえば、「富のゲーム」全盛になっていたが、「威のゲーム」の時代の最後の名残があった時代――。これが1950年代末といえる。日本の一部である沖縄を人質にとって、「威のスパイ」のいいがかりをつけて圧力を掛けたのだ。
「怪しい奴は死ね」とでもいいそうな、占領軍の本音をぶちまけた法律ではある。なお、怪しいことを意味する「胡散」という言葉は、日本の南西地域を軸にした文化交流の歴史を背負った言葉らしい。「うさん」という別の字をあてて呼んでいた、中国産の黒い釉薬を掛けた焼き物があり、その贋物が出まわったことがもとになったという説、ポルトガル語の「Vsanna」(ウサンナ=怪しい)から来たという説などがある。
さて、1962年、産業スパイという言葉が日本でブームになり、1963年には、産業スパイ防止と銘打ってシュレッダーが発売された。1964年2月、大手印刷会社を狙った産業スパイが日本で逮捕された。日本でスパイといえば、「富のスパイ」を指す時代になった。
20年のときを隔てた1982年6月のIBM産業スパイ事件は、富のゲームから智のゲームへの移行期に起きた。日本のコンピューター産業の最先端、日立と三菱電機の信用を失墜させ、事件に直接関係はしなかったが、IBMと富士通との間の情報開示契約まで結ばせることに成功した。
そして、さらに20年たった2001年5月、智のゲームが完全に立ち上がった時代に、ライバルとして競い合いながらも教え合う互恵の精神で成り立ってきたはずの学術の分野に、「智のスパイ」という異物のような概念を鎮座させてしまった。
ルパン、論判、いいジャパン
英国のジェームス・ボンドが典型的に示すように、スパイには、国益を背負っている高揚感と、やりきれない暗さとが同居している。一方、ジャパニメーションの代表ともいえる、大泥棒、ルパン三世の何と明るいことか。
ジャングル大帝のヒントはディズニーのバンビだったと公言し、ライオンキングがジャングル大帝に似ているといわれたときに、師匠と尊敬するディズニーの参考になったのなら光栄だ、と答えた手塚治虫。かたや、30年ほど前に全米放映されていたジャングル大帝について、見たことも聞いたこともないと答えたディズニー関係者。先日も、数年前にNHKが放映したテレビ番組(原作は、フランスのジュール・ベルヌ)に酷似した長編アニメを制作したディズニー。アルセーヌ・ルパンと銭形平次と石川五右衛門のそれぞれの子孫が、なぜか交錯するおおらか、能天気のルパン三世。
日本社会のある種の暖かさ(それは、甘さでもあるのだが)に慣れると、米国のやり方には、違和感を感じざるを得ない。すなわち、学術の分野に、連邦大陪審のような、技術的、制度的に複雑な事項について必ずしも緻密な吟味の集大成としての判断が出るとは限らない論判の仕組みを適用して、スパイ容疑だと断じてしまったというやり方である。
もちろん、甘さの裏返しといえるが、オープンさに欠け、グローバル時代にそぐわない日本の弱点も強く自覚すべきである。知的財産権は、国ごとの歴史と慣習により、業界ごとの歴史と慣習により、また、軍、産、学といった一種の生きるスキームごとの歴史と慣習により、解釈の違いが生じうる分野である。しかも近年、グローバル、業際、社会インフラといったキーワードが似合う、世界的に関係し合う分野になった。当然、たとえお互いに信頼関係があったとしても、誤解や利害の衝突が生まれうる。そのとき、裁判や国際紛争審査制度のようなオープンな仕組みの上で、論判することをためらってはならない。
行政指導に代表される決定の恣意性が、「いいジャパン」の実現を遅らせる大きな要因だったのである。
螺旋、独占、頭脳戦
ビートルズが自由の象徴のように用いた果物の名をつけたコンピューター会社がある。その会社は、1984年、青い服をきたビッグブル、いやビッグブラザー軍団に歯向かう勇気ある女性をテレビコマーシャルに登場させた。アメフト、スーパーボウルの合間のコマーシャルで、「1984年があの『1984年』にならないように」我らのパソコンを普及させるのだと訴えた。
ジョージ・オーウェルの『1984年』で、主人公は、ラテンアメリカ、米、加、英、豪、ニュージーランド、南アからなるオセアニアという超大国に属する。この版図は、エシュロンの構成国によく似ている。市民のすべての行動が電子的仕組みと秘密スパイによる摘発で監視され、過去の歴史はおろか、言葉さえも政府の意図のもとに変えられていく国、オセアニア(『書評「一九八四年」』、中野潔、あうろーら終刊号、2000年)。
コンピューターもインターネットも、そしてデジタルネットワーク上でクリエーターや発明家の権利を守る著作権も、特許権も、世界の市民が皆、健康で文化的な生活を送るために、整備してきたものではなかったのか。創始期には軍事上の目論みが強く出ていたコンピューターもインターネットも、市民の力で、平和利用を中心とするように舵取りしてきたのではなかったのか。
公文俊平氏のいう「智のゲーム」の「ゲーム」は、まさしく試合。お遊びでもないかわりに、闘争本能を剥き出しにした戦争でもない。ルールにのっとって、試合に参加するすべての人の技量を高めて、さわやかな思いでを残す、叡智に満ちた仕組みだ。遺伝子はスパイラル(らせん)だが、先代の生物のすばらしい形質を所与のものとして、いきつ戻りつしながら上に進んでいくというバーチャルな意味でもスパイラル。同様に、スポーツの記録でも知的財産でも、我々はルールを定めて「ずる」を防ぎながら、先人の偉業を踏み台にしてスパイラル状に進んできた。生き物の発生と進化自体に由来する、競争と共生と継承の知恵を生かしながら、本来の意味での「智のゲーム」の時代を作り上げていきたいものである。
なお、遺伝子スパイ容疑事件、エシュロン、IBM産業スパイ事件、智のゲーム、バイオインフォマティクスなどについて、拙著『知的財産権ビジネス戦略 改訂2版』(オーム社、税別2400円、2001年6月20日刊)で詳述している。参考にしていただければ幸いである。
本稿は、2001年7月末に執筆し、『出版レポート』(日本出版労働組合連合会)2001年秋号に掲載された拙稿を再録したものである。なお、川勝平太の英印国際貿易、産業革命分析に言及した拙稿『国際政治の道具となった知的財産権』(仮題)を掲載した『まねてつくる──情報文明のダイナミズム』(仮題)(編著:国際日本文化研究センター 類似性の科学と模倣の情報文化に関する研究会)が、2002年10月か11月には、勉誠出版から発刊される予定である。