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情報化時代のプライバシー

青柳武彦
(GLOCOM主幹研究員)

 情報化時代には、マスコミや情報通信ネットワークの発達によって個人の私生活が多くの人の目に曝される機会が増えるようになって、プライバシー侵害の弊害がますます強く意識されるようになる。そのためにプライバシー権の意識が強く芽生えつつある。それ自体は喜ばしいことであるが、そのためにかえって混乱が生じたり不便が生じたりすると、それはそれで困りものである。筆者は、いかにプライバシー権と現実との調和をはかるべきかについて研究を進めてみたい。

プライバシー権は高級かつ脆弱な人格権

 旧約聖書の創世記によれば、神によって創造された最初の人間であるアダムとイブは、蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べるという原罪を犯してしまい、その罰によりエデン*1の園から追放されてしまった。それからはアダムとイブは、互いの裸体を恥ずかしがるようになった。つまり、恥の意識やプライバシーの意識などは原罪の産物であり、できればそんな小賢しい意識は持たないほうが人類は幸せであったという文脈である。

現実の人々の生活の中でプライバシー権の意識が芽生えたのは、近代以降になって個人の自我と権利についての意識が高まって、社会的にもそれが強く主張されるようになってからである。生活にある程度の物質的な余裕が出来て、精神生活における欲求も高度化したものである。つまりプライバシー権とは、高度に成熟した市民社会において初めて必要とされ、かつ社会的認知も獲得した高級な、それだけにどちらかというと基本性が低い脆弱な人格権の一種なのである。

 こうしたプライバシー権は、しばしば多くの他種の人格権や公共の利益と競合したり衝突したりする。もしプライバシー権が、完全に社会的な認知を受けて尊重され、法律的にも厚い保護が与えられている社会が存在するとしたら、そうした人格権や公共の利益との摩擦が起きないほどに幸せな、またはそれとの調整が奇跡のように成功している一種のユートピアであるに違いない。しかし、もしかすると本来はプライバシー権よりも優先されるべき、より基本的な人権や高い公共の利益がないがしろにされている、病んだ社会なのかもしれないのだ。プライバシー権は、むしろ数多くの競合する人権や公共の利益との妥協の中で、傷だらけになりボロボロになってようやく自己を主張しているか弱い権利である方がトータルでは健康な社会なのではないだろうか。アダムとイブが幸せな生活を送っていたエデンの園のように。

 かつてドイツにおいて、プライバシー権保護のために、患者の同意がなければ疫学データを収集してはならないという趣旨の法律が施行されたことがある。そのために、せっかく長期間続いてきた疫学データベースが中断してしまい、医学の進歩の大きな障害になった。いうなれば、プライバシー権を主張するにあたって極めて重要なことは、情報主体者がどこまで権利を譲れるのか、あるいは放棄できるのかを、社会の調和の観点から慎重に考えることなのである。

プライバシー権の生成と発展

 わが国においては、プライバシー権が初めて法律的に認知されたのは、三島由紀夫著『宴のあと』事件がきっかけであった。モデルとされた有田八郎が著者と出版社を訴え、東京地裁は1964年に「たとえ文学の名の下であってもプライバシー権の侵害は許されない」という趣旨の判決を下した。最近では、柳美里著の『石に泳ぐ魚』事件について最高裁が2002年9月24日に同様な判決を下している。プライバシー権の保護のためには文学における表現の自由も制限される場合があるとの判断のもとに、書籍刊行の差止めと損害賠償金の支払いが命じられたのである。住基ネット問題においても、プライバシー権との関連において国民の意識が高まりつつある。大変に結構なことである。

 ところが最近、プライバシー権を認知せしめて社会的にこれを尊重するバランスの取れた環境を築き上げるのにマイナスになるような三つの徴候が見受けられる。

■プライバシー権の過保護

 その第一はプライバシー権の過保護である。冒頭に述べたように、プライバシー権が高級な権利であるということは、反面、基本性が低い権利ということを意味する。換言すれば、他の基本性の高い権利概念や公共の利益と競合したり衝突したりするときには、さっさと道を譲るべき場合が多いのだ。したがってプライバシー権は、いたずらに主張するだけではなく、より基本的な権利を護ったり公共の利益を護ったりするために、これを放棄する(個人情報の利用を承認する)ことを学ぶことも同様に重要なのである。

 ところが昨今のプライバシー権を主張する論者には、この新しい人格権の重要性と意義を強調するあまり、他の競合する権利や重要な公共の利益までも押さえ込んでしまおうとする傾向が見える。それでは摩擦があまりにも大きくなるから、プライバシー権の意識は社会に根付かない。

■プライバシー権の拡大解釈

 第二のマイナスの徴候は、プライバシー権の範囲の拡大解釈である。住基ネット反対論者たちの多くは、その論拠の一つとしてプライバシー問題をあげている。しかし一般的には、住所・氏名などの公表された事実は、それだけではプライバシー権は認められない。住所・氏名はプライバシー権侵害になるような事柄と結びつけられて、初めてプライバシー情報の一部となるのだ。この「結びつけ行為」がプライバシー権侵害なのであって、住所・氏名にプライバシー権があるわけではない。

 リストが流用される危険性は、情報の盗用や機密漏洩の危険性である。それによって将来のプライバシー権侵害の危険性が増加することは否定しないが、侵害そのものではない。管理が悪くて日本刀が盗まれてそれが殺人に使われた場合でも、盗まれた人は銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)違反に問われるかもしれないが、殺人罪に問われることはない。リストがプライバシー権を侵害するような使われ方をしたときに、初めてプライバシー権侵害問題が生じるのだ。

 新しい権利を社会に認知させて、それを護る体制を築くためには、むしろその概念をきちんと制限的に規定して、その代わりにしっかりとこれを護るほうがよいのだ。その意味で、現在プライバシー権の定義として定着しつつある「自己情報をコントロールする権利」という表現は広すぎる。法的権利として保護すべきなのは、すべての自己情報ではなくて、そのうちの“不可侵私的領域”に関する自己情報に限ることを明確にすべきである。

■プライバシー権への拒否反応

 マイナスの徴候の第三点は、プライバシー権に対するいわれのない拒否反応である。一部を除いてではあるが、個人情報保護法案に対する反対運動を展開しているマスコミ関係者の中に多く見受けられる。報道の自由や表現の自由を少しでも制限しかねない動きがあると、まるで人間の生存の権利が否定されたように猛烈に反発する。これらの「言論の自由」の問題は、政治権力などの強者に対してこそ強く反発すべき問題であって、事件の被害者個人などの弱者の人権を蹂躙する手段であってはならないのだから、しかるべき調整と配慮が必要である。

 プライバシー権と表現の自由は、その本来の性格からいって競合、時には背反するわけであるから、衝突するのが当たり前なのである。これは、プライバシー権の尊重と表現の自由をどの辺で折り合いをつけるかという調整の問題なのである。もし調整を認めないで、少しでも報道の自由や表現の自由を制限しかねない可能性があるとヒステリックにこれに反対するというのでは、プライバシー権を互いに尊重しあう成熟した市民社会はいつまでたっても実現できないだろう。

*1 エデン:ヘブライ語で、「歓喜」、「快楽」を意味する。

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