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智場、GLOCOM Review、コラム…


 

ケーキが熱くなると群がる蟻を飲み込んで流れ出すもの

中野潔
(GLOCOM主任研究員)

ゲルマン紙幣一億円

 1990年代を「失われた10年」と呼ぶことがある。土着の日本文化と、英米型資本主義とが仲違いをした10年だった。英米型資本主義に食い物にされた主体は、局部の体毛まで抜かれた、裸のマネキン人形、木偶の坊の状態まで落ち込んだ。そこまでいかずに、越中名物の下着だけは剥がされずに済めば、マネ金ならぬマネフンだろうか。money(金)のhoon(木偶の坊)で、moneyhoonとでも綴るのだろうか*1。

 140年も前、土着の日本文化と資本主義とが出会ったばかりで、蜜月(honeymoon)状態だった時期がある。資本主義が、封建時代の日本にはない良さを引き出してくれそうな期待が多分、皆にあった。そのころを舞台にしたフィクションが、『ゲルマン紙幣一億円』である*2。明治4年ごろの東京、群馬、岐阜などを舞台に、藩札を駆逐するためにドイツで印刷した新札を普及させようとする新政府の裏をかいて、ひともうけをたくらむ市井の小悪人たちの活躍を活写した傑作である。

 江戸から明治にかけて、貨幣というのは、今の「日本円」ほど堅固なものではなかった。発展途上の小国で、その国の貨幣を誰も信じず、米ドルの方が信じられる国がある。当時の日本の人々が貨幣に対して抱いていた感覚は、現代のそうした国と似たようなものかもしれない。

 江戸時代、まず幕府発行の貨幣にしてから、金を基準にした貨幣体系と銀を基準にした貨幣体系が並立していた。紙幣も、金の兌換券と銀の兌換券に分かれていた。金系統の基本単位である両にしても、一両小判の金の含有率が時代によって変わるため、揺れ動いた。いついつの小判は一両だが、いついつの小判はそこまでいかないといった感じである。大体、幕府の財政が逼迫すると改鋳して金の含有率が減る。紙幣もどんどん刷るから、貨幣の価値が下がる。

 さらに問題を複雑にしたのは、藩札の存在である。全国260余りの藩が、藩の中だけでしか信用されない藩札を刷っていたが、維新前後には藩の財政が逼迫したため、乱発された。政府発行の紙幣である太政官札や二分金などの贋金を藩ぐるみで作ることも横行していた。

 そこで政府は、円、銭、厘という10進法の新しい通貨単位系を作り、ドイツで新札を刷って流通させることにした。当時、ドイツの印刷技術は世界一。にせ札づくりは、ほとんど不可能になる。そして、藩札を強制的に新円に交換させることで、円だけが流通する社会にしようと目論む。藩命によるにせ札づくりに関与し、掌を返した藩に追い出された主人公は、藩札の公式交換レートと、市井の交換レートとの差を利用してひともうけしようと企むのである。

石貨があぶり出す貨幣の「思惑性」

 貨幣や金融の本質というのは、わかりにくい。文献*3などに目を通したことがあったが、やはりわからない。貨幣の価値には、「皆が信じているから成立している、各自が信じているのは他の人も信じているから」という、同義語反復のようなとらえどころのなさがある。

 筆者は、権威や宗教や貨幣が共通して備える「皆が信じるから自分も信じる」という性質を「思惑性」という言葉で表せないかと考えている。権威や宗教の「思惑性」については、稿をあらためて論じてみたい。

 実は、貨幣の思惑性は、宗教や武力よりもさらに強い。貝殻1枚が、牛1頭なのか牛10頭なのかは、社会の構成員の慣習(共有の記憶)と思惑だけによって決まるとみてよい。貝殻と牛との交換比率は、しょせんフィクションなので、皆が納得しさえすればそれでいい。

 しかし、物体を軸に動いてきたヒトが、貨幣の思惑性の壁に突き当たったとき、困惑したのは不思議でない。1年分の働きが貝殻1枚、金貨1枚と同等で、盗まれたらそれで終わりというのは、心の奥の理不尽感をかきたてる。

 貨幣の価値を、ずっしりと身体で感じるために非常に重くしたのが石貨である。ところが、皮肉なことに、石貨は貨幣の思惑性を端的に表現している。重過ぎて動かせないために、石貨の持ち主は、村落の共有記憶によってしか定められない。「今の持ち主は、○○川のほとりのやしの木の脇に住むAから譲られた、△△丘のふもとの泉の脇に住むBだったはずだ」と、皆が覚えているから、Bの石貨だということになる。相当以上の人の記憶があやふやになれば、「いや、Bに譲る話は破談になって、Aのままだったはずだ」ということになるかもしれない。

過熱と溶融

 金(きん)の実用的用途は金歯や金箔程度である。金の値打ちも、思惑性の中から決まっている。不換紙幣は、その情報性をさらに進めた。紙幣(国家通貨)の強さは、まさしく、国内社会、国際社会の思惑で決まる。西南戦争の際の西郷札は、西郷軍が勝てば国家貨幣、負ければ紙屑である。ネットワークの発達は、通貨の強さを保証する存在である国家の強さでさえも、思惑の相対性の中で決まることをあらわにした。国家通貨よりも、多国籍企業の社債の方が信用されることはよくある。もちろん、銀行口座データベースの中のビット列であるという意味でも、貨幣は確かに思惑、すなわち情報にすぎない。

 株式市場は美人コンテストだが、自分が美人と思う人ではなく他者が美人と思うだろう人に投票するのだ――とよくいわれる。各国の通貨が、それと同じロジックで、実際に使う通貨の数十倍、数百倍、世界市場を動くようになったことは、地域に密着して地道に暮らしたい人にとっては本当に迷惑である。一方、利を求める人はとかく勝ち馬に乗りたがる。甘い蜜に群がる蟻のように、最も値上がりしそうな案件に集まってくる。

 熱いホットケーキ(同義語反復か)にかけた蜂蜜が融けて流れ出すように、お金も景気が良くなりすぎると、人の欲望を飲み込んで、過剰流動の状態になる。honeyもmoneyもケーキが過熱すると、危なくなるのである。現在のように冷え込みがえんえんと続くのも考えものであるが。

 ということで、今後は、法的バックアップなしなのに思惑の中で価値が続く一種の通貨、かといってグローバルな思惑の揺れには乱されない通貨、「共貨」についても視野に入れながら、情報通信と社会との関係について研究を続けたい。

*1 <http://web.jet.es/lheglar/catharsis.pdf>によると、moneyhoonとは、金のことが頭から離れない新郎が、honeymoonというつもりで言い間違える言葉らしい。

*2 渡辺房男[2000]『ゲルマン紙幣一億円』講談社

*3 岩井克人ら[1999]「特集 金融とは何か」『大航海』4月号、新書館

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