産業社会の変遷とブレークスルー
──フィールドとツールの交代を軸にして──
中野 潔(GLOCOM主任研究員)
第三の波
アルビン・トフラーは、20世紀後半から始まった社会、産業の大きな変化を「第三の波」と呼んだ*1。また、第一の波を農業革命と呼び、第二の波を産業文明の出現と呼んだ*2。第二の波を産業革命と呼んで問題は起きまい。
しかし、第三の波、あるいは第三の波が出現させる時代や社会には、固有の名前を付けなかった。自分自身の提唱した「超産業化社会」を含め、「宇宙時代」、「情報化時代」、「電子工学時代」、「技術・電子工学時代」、「脱産業化社会」、「科学・技術革命」といった用語を並べたうえで、どれも十分適切な表現ではないとした*3。
本稿では、トフラーの第三の波にあたる変革がもたらす社会を「情報化社会」と呼ぶ。情報化社会を含めて厳密な定義をせず、農業革命以前の社会を「狩猟社会」、以後、産業革命までの社会を「農業社会」と呼ぶ。産業革命以後、20世紀後半に始まり現在も続いている変革、仮にそれを情報革命と呼ぶことにするが、それまでの社会を「工業社会」、情報革命の後の社会を「情報化社会」と呼ぶことにする。
本稿では、フィールドとツールという概念を使って、これらの社会の変化の裏にある、まだ厳密に証明されたとはいえないが筆者がおぼろげに感じている法則性について、論じてみたい。
石器時代
本稿を記すにあたり、下記で説明する「フィールドとツール」という概念に、どう到達したかを考えてみた。「フィールドとツール」という概念で、社会の発展段階を区分し説明しようと思ったのは1996年ごろであり、そのときには、西村吉雄の「硅石器時代」*4の影響を受けているとは感じていなかった。今考えてみると、この「石器」という言葉への違和感が、本稿の議論を生み出す原動力の一つになっているようである。
西村*5の言というのではないが、石器時代再来という言説が、しばしば用いられる。石器時代から鉄の時代になり、情報化社会にいたって、半導体、コンピュータという一種の石器が再び産業の中心的道具になるようになったというのである。現在ほどコンピュータが人々の身近でなかった時代における、読者の注目を引くレトリックとしては、「石器回帰説」に一定の効果を認める。だが、その物言いには、何かざらざらとした違和感を感じざるを得ない。
本来の意味での石器時代の石と、農業と工業の時代における鉄においては、素材の性質そのものが、生活や産業に与えた恩恵(機能)と密接に結びついている。しかし、情報化社会における「石器」を形作る「石」には、電気パルスを通す微細な回路を形成する土台となる絶縁体という役割しかない。回路がその上に形成できるなら、土台はプラスチックでもゴムでもいいのである。産業発展を招いた技術の主役は、あくまで、電気パルスと、それが運ぶ情報である。それにもかかわらず、たまたま便利がよくて選ばれた「石」を主役のごとく扱うところに、この言説の無理がある。これが、筆者の感じた違和感の正体であろう。
鉄の時代から石の時代へという物言いの魅力は、科学史家の一定割合をつかんで離さない。たとえば、常深康裕は、工業主導の時代における大きな節目を「鉄の機関から鉄の中の機関へ」、情報化進展の時代における大きな節目を「石の機関から石の中の機関へ」という言葉で表している*6。
フィールドとツール
図は、本稿を記すうえでの基本的アイデアを示したものである。ここでは、フィールドという概念とツールという概念を用いる。しかし、恥ずかしいことながら、筆者は、フィールドとツールとを明確に定義することに成功していない。ここでは、フィールドとは、社会の中心となる生産活動において、主たる成果物(農業社会なら農産物、工業社会なら工業製品、情報化社会なら情報)を(妙な表現だが)直接「肌を接して」形成する存在を意味し、ツールとは、その形成プロセスを駆動する存在を意味する――と簡易的に述べておくにとどめる。
農業革命以前の狩猟社会におけるフィールドは自然、農業社会におけるフィールドは土、工業社会におけるフィールドは鉄、情報化社会におけるフィールドは電気である。これに対するツールは、それぞれの社会を擁する時代の前期と後期とで異なる。狩猟社会の時代の前期では石、後期では土、農業社会の時代の前期では青銅、後期では鉄、工業社会の時代の前期では蒸気機関、後期では電気、情報化社会の時代の前期ではコードである。ここでいうコードとは、プログラミングコードとそれを記述する文字コードとを主に想定した概念である。
ツールとブレークスルーのリレー
それぞれの社会の時代が成熟すると、その膠着状態を突破するブレークスルーとなる技術的存在が登場して、次の社会の時代に移っていく。狩猟社会では青銅に代表される金属の登場、農業社会では蒸気機関、工業社会ではコードという言葉で筆者が示すところのコンピュータが、ブレークスルー技術である。
興味深いのは、ある時代の後期におけるツールとブレークスルーの対が、次の時代のフィールドとツール(前期)の対の座におさまることである。逆の言い方をすれば、ブレークスルー技術というのは、ある時代のツールを、次の時代のフィールドに転換させるほどの影響力を持った技術なのである。
狩猟社会の時代の後期(以下、「時代」や「後期」を略)にツールとして活躍した土が、農業社会のフィールドとなり、農業社会のツールである鉄が工業社会のフィールドとなり、工業社会のツールである電気が情報化社会のフィールドとなる。狩猟社会にブレークスルーをもたらした青銅が農業社会のツールとなり、農業社会のブレークスルーである蒸気機関が工業化社会のツールとなり、工業社会のブレークスルーであるコードが情報化社会のツールとなる。
ブレークスルーの本質
それでは、ブレークスルーの本質とは何だろうか。狩猟社会末期に、青銅を操る技術を発見したということは、品質一定の道具が手に入るようになったということを意味する。手という道具から金属製の道具に、道具が飛躍したのである。
それまでもちろん、道具がなかったわけではない。石器を刃物として用いることはあった。土器を主に貯蔵用の道具として用いることはあった。しかし土器は、土を耕すのに用いるほどの強度を備えていない。木で土を耕す道具を作るのは理論上可能で、実際、江戸時代でも金属製の農具と木製の農具とを併用していた。とはいえ、コンスタントに一定品質の木製農具が提供できるのは、金属の刃物があるからである。石を割った刃物では、品質一定の木製農具は作れない。
農業社会末期に蒸気機関が発明されたことで、人手から人工の動力へと、生産活動を支える力の源が移った。もちろんそれまでにも、前述したように水車や馬があった。しかし制御可能な、また、自然環境にあまり左右されずに設置可能な動力源として、蒸気機関は画期的なものであった。
現在、工業社会が終わり、情報化社会の時代に突入していると仮定しておく。工業社会末期に、パンチカードやコンピュータに代表される「コード」の概念が登場したことは、人の頭による制御から、コンピュータプログラムに代表されるプログラムによる制御に切り替わったことを意味する。
ブレークスルーという言葉は突破を意味する。それぞれの社会のブレークスルー技術は、どんな限界を突破したのだろうか。
狩猟社会末期に金属製の道具が登場し、品質の安定した行為による生産活動、すなわち、農業が社会の主たる産業として確立した。それは、2000年から3000年の時を掛けて徐々に発達していったわけだが、動力の基本が人力、後は牛馬や水車を補助的に用いる程度という限界のゆえに成熟した。
この動力の限界による、生産力の限界を打ち破ったのが、蒸気機関である。
蒸気機関、後には電気による動力の革命により産業革命が起き、社会全体の生産力が大きく向上する。しかし、生産力が増大しても、それを制御するのがあくまで人の頭であるという限界によって、工業社会が成熟する。このインテリジェンスの限界による、生産力の限界を打ち破ったのが、パンチカードやコンピュータで体現された「コード」という存在である。これを、デジタル技術と呼び換えてもいいかもしれない。筆者は、このコードという言葉を、まだうまく定義できていない。
ツールの前期と後期
図をみてわかるように、各社会におけるツールとして、前期のものと後期のものとを設けている。狩猟社会においては石と土、農業社会においては青銅と鉄、工業社会においては蒸気機関と電気が、それぞれそれに当たる。情報化社会においては前期のそれがコードだが、後期のそれがまだ見えていない。
後期のそれと比較してみると、各社会の前期のそれには、小規模システムで供給可能だがもろいという欠点がある。狩猟社会における石の素材は、基本には拾ってくれば手に入る。農業社会における青銅も、鉄に比べれば、ずっと低い温度で溶かせる。工業社会における蒸気の力も、石炭と水と蒸気機関があれば、他の社会システムとの結合なしに単独で生成できる。
しかし、石、青銅、蒸気の力のいずれも、きめこまかく自由に制御するうえでの柔軟性という点に課題のある存在である。
これに対して、後期のツールは、いずれも柔軟で、さらに後述するが、自己増殖性という性質を備えている。一方、提供するために、前期のツールよりも大規模な仕組みが必要になるという課題を抱えている。
まず、土である。土器になる土には一定の条件がある。もちろん、石器に適した石にも条件があるから、その点だけみれば、特に土についてだけそれを強調するのは難しいが、土器を作ってから消費地に届けるにしても、土の素材の段階で土器を生産する土地に運ぶにしても、石よりは高度な仕組みが必要になる。また、石に遜色ない硬さを持たせるためには、天日干しでなく、火で焼く必要が出てくる。そのため、それなりの装置が必要になる。一方、土の成形の容易さが石の比でないのは、明らかである。
次に、鉄である。青銅は、銅と錫の合金である。銅の融点が1085℃、錫の融点が232℃であるが、とけた錫に、融点に達しない銅がとけるのだという*7。このため、とけた青銅を作るのは容易である。これに対して、単体の鉄の融点が1535℃。鉄器を作るには、青銅器よりもずっと大きな仕組みが必要になるのである。しなやかさであるが、数値が高い方が強いといえる引っ張り強さについて、「ねずみ鋳鉄」が450、青銅鋳物が275という数値がある*8。基本的に鉄の方がしなやかであるといえそうである。
そして、電気である。今でこそ石油による自家発電装置が存在するが、産業革命の時代には、そして今でも、発電所による発電が基本となる。発電所は、個々の蒸気機関より、はるかに大きな設備となる。そのかわり、ひとたび発電所と配電のシステムが完成すれば、それによるエネルギー供給の柔軟さ、制御しやすさは、まったく蒸気機関の比ではない。
自己増殖性
後期のツールの特徴として、自己増殖性をあげることができるだろう。土はハンドリングしやすい。このため、土で窯(かま)を作って土器を焼くことができる。また、鉄も鍛冶の道具となる。熱した鉄を鉄のハンマーでたたいて、成形することができるのである。電気パワーは強く制御しやすいので、電気式工作機械で電気機器が作れる。
各産業社会が成熟して自己増殖フェーズになると、その社会のレベルにおける生産において、数の面では余力が高まる。しかし、ボトルネックが逆に露わになる。狩猟社会においては定型性、農業社会においては動力、工業社会においてはインテリジェントな制御力の不足である。人間の能力に依存しているかぎり、そのボトルネックによる天井を打ち破ることができない。その天井を打破する技術が、今まで述べてきたところのブレークスルーである。
仮に自己増殖性がキーだとすると、情報化社会の後期ツールは、遺伝的アルゴリズムや人工生命に関するものということになる。これは証明ができないが、説得力のある推測であると考える。(続く)
*1 アルビン・トフラー[1980]『第三の波』(邦訳)、p.8、NHK出版
*2 同上、p.20
*3 同上、p.19
*4 西村吉雄[1985]『硅石器時代の技術と文明』日本経済新聞社。お恥ずかしい話だが、筆者(中野)はこれを読んでいない。
*5 西村吉雄。東京大学教授。筆者が日経BP社に在籍していた1985年前後、西村は日経エレクトロニクス編集長であった。日経BP社での上司あるいは先輩で筆者が最も尊敬している人たちをあげると、西村、田中善一郎、澤井仁、中島洋(書ききれないのであとは割愛)といったところになる。
*6 常深康裕[2001]『スーパーテクノロジー』行人社。ちなみに、鉄の機関とは外燃機関である蒸気機関を、鉄の中の機関とは内燃機関であるガソリンエンジンを指している。ガソリンエンジンによって、自律して容易に移動可能な自動車という道具が登場し、工業の時代における質的な飛躍が生じたとする。また、真空管ではない半導体により具体化されたコンピュータを石の機関と呼び、MOS(金属酸化膜電界効果トランジスター)の発明をきっかけとして起きたLSIの発達による1チップMPUを、石の中の機関と呼んでいる。1チップMPUが実現したパーソナルコンピュータが、自動車の登場と同様の、情報化の時代における質的な飛躍をもたらしたとする。筆者(中野)は、外燃機関と内燃機関との差に匹敵するほどの、コンピュータ関連の飛躍を表す言葉として、外組機関と内組機関という概念を考えてみた。外組機関とは、プログラムを配線によって実現しており、プログラムを変えるためには配線のし直しが必要だったコンピュータを指し、内組機関とは、プログラム自体もデータとして読み込むことのできる、すなわち、配線し直しの要らない、ストアドプログラミング方式、いわゆるノイマン型のコンピュータを指すというものである。しかし、50年にもわたる内組機関の時代に対し、それ以前の外組機関の時代は数年しかないので、非常にバランスが悪い。
*7 ケフィ・バリカリ(日本人のペンネーム)「鋳造体験教室2」、<http://www58.tok2.com/home/pallhkari/index-1036.html>、'02年12月1日存在確認
*8 数理設計研究所「機械的物性」、<http://www.madlabo.com/mad/edat/data/principle/phismech.htm>、'02年12月1日存在確認