く・も・ん・通・信
政府のe-Japan戦略は、「安全と安心」を国家の追求すべき主要な戦略目標として設定しています。
確かに、情報社会の現実の姿がしだいに明らかになってくるにつれて、人びとの不安も増しています。ローレンス・レッシグは、コンピュータの“コード”を通じてわたしたちの行動が細かく制約される社会の到来を予想しました。デービッド・ファーバーは、『1984年』のビジョンですら子供だましといいたくなるような厳しい監視を、政府が国民に対して行えるようになると警告しています。ハワード・ラインゴールドは、政府もさることながら、むしろ“スマートな群衆”の間での日常的な相互監視が強まることに懸念を表明しています。
情報社会の本質が人びとの知力の増進にあるとしたら、増進する知力の多くは、結局のところ、他人についての情報や知識を獲得するために用いられるはずです。実際、わたしたちが効果的な共働(コラボレーション)を展開したり、お互いにさまざまなサービスを提供し合ったりするうえでも、相手をよく知っていることは必要不可欠です。つまり、わたしたちは自分の“プライバシー”を開示し合うことによって、より充実した社会生活を営めるのです。とはいえ、そこには、“プライバシー”の侵害や個人情報の濫用・誤用・悪用の危険が常につきまといます。個人情報の善用と悪用は、一つの楯の両面のようなもので、都合よく切り分けて対処することは不可能でしょう。
つまり、安全と安心が欲しいといっても、百パーセントの安全や安心が得られることはそもそもありえません。もちろんそれは、個人情報に限られたことではなく、わたしたちの社会生活のすべての側面についていえることです。
しかも人びとは、ほとんどの場合、百パーセントの安全や安心が得られないことは承知のうえで、さまざまな社会生活を営んでいます。事故の危険を知りながら交通機関を利用し、誤診の危険を知りながら病院で診療を受けています、等々。
とはいえ、他方ではその逆のケースも見られます。天然エネルギー資源に乏しい日本で、ますます多くの人が原子力発電にノーと言い始めています。住基ネットの導入にも否定的な意見が相次いでいます。あるいは、食糧難に苦しむ多くの途上国で、遺伝子組み換え作物への拒否反応が強くなっています。
そこに見られるのは、既存の政府や企業に対する不信の高まりです。ITは、わたしたちの生活をより豊かで楽しいものにしてくれるかもしれない。しかし、それがいまの政府によってもっぱら推進・利用されるとしたら、統制・管理される危険のほうがはるかに大きい。バイオ技術は、わたしたちを飢えや病気から救い出してくれるかもしれない。しかし、それが世界の征服をたくらむ国家や利潤の獲得に努める企業によってもっぱら推進されているとしたら、彼らに利用され支配されてしまう危険の方がはるかに大きい。それなら、そんな技術や製品はなくてもけっこうだ。いやもっと積極的に反対だ……。
政府や企業のような既存の制度やそれを担う個人に対する不信感が強まる一方で、ラインゴールドも指摘しているように、新しく台頭してきつつある“スマート”な個人とその組織に対しても十分な信頼がもてないとしたら、わたしたちの社会生活は崩壊せざるをえません。そこで“安全と安心”の必要をどんなに声高に唱えたところで、虚しく響くだけです。むしろ、いまとりわけ必要なのは、既存の制度に対する人びとの信頼を取り戻す努力なのではないでしょうか。
そう考えるならば、先日GLOCOMの主催で開かれた無線ブロードバンドの未来に関するシンポジウムでパネリストとなった(株)鷹山の高取直社長が、行政への信頼を取り戻す必要を強く訴えられた理由も理解できるように思います。
そこであらためて思い出されるのが、1995年にハーバード大学のロースクールが主催した「サイバースペースと法」に関する公開セミナーで行われた議論です。そこでは、「情報社会の諸問題は、結局のところ、“われわれの真の敵は誰か”、“われわれは誰を信頼するのか”という問題に帰着する。米国人はこれまで政府を自分たちの主要な敵とみなしてきたのだが、その見方を改める必要はないのか。いまや米国人にとっての主要な敵は、異なる価値観や文明をもつテロリストたちになったのではないのか。いや、企業ですら、市民の権利と自由を侵害しかねない危険な敵になりつつあるのではないのか」という反省のもとに、「われわれの政府は基本的にはむしろ味方ではないのか。あるいは味方でありうるような政府を作らないことには、生活の安全や豊かさや楽しさは、今後は保障されなくなりはしないか」という問いが、あのテロ攻撃の6年も前に、すでに提起されていたのでした(公文俊平編著『ネティズンの時代』、第3章参照)。
公文俊平