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智場、GLOCOM Review、コラム…


 

社会変化の認識枠組み:S字波と長波

公文俊平(GLOCOM所長)

 私は先に、『文明の進化と情報化』(NTT出版、2001年)の中で、社会変化を把握するための概念的枠組みの一つとして、“S字波”を取り上げてみた。しかし、そこでの説明はあまりにも言葉足らずで、わかりにくいという声が少なくなかった。そこで今回は、私の考えをもう少し詳しく説明してみたい。

 いかなる対象の認識についてもあてはまることだろうが、われわれは、頭の中に、認識の対象となる個々の(個別具体的な)事物や事象[以下では単に“事物”と総称する]を分別してしまいこむための箱をたくさんもっている。これが各種の(抽象一般的な)“概念”にほかならない。そもそも“変化”という概念自体、そのような抽象一般概念の一つである。

 以下では、変化の中でも、とりわけ社会変化とでも呼ぶべき概念について検討してみたい。そして、社会変化という概念に含めることが有用だと思われる、ある観念的な構造を提案してみたい。それが、ここでいう“S字波と長波”の構造である。

S字波の基本型

 まず、その原型が図1に示されている“S字波”は、われわれの頭の中にある社会変化の一般的なイメージを、次のようなものだと想定している。すなわち、時の流れの中のある時点で、人々は、何かある新しい社会的事物が出現したことを意識する。多くの場合、そうした意識の形成は、出現したと想定される新しい事物に対して新しい名前が与えられるときに、あるいはすでに名前があっても、現実には存在せず仮説(あるいは想像)にすぎないと考えられていた事物が、現実のものとして立ち現れてきたときに、はっきりと自覚される。

 出現した新しい事物は、最初はゆるやかに発展していく。ここで“発展”というのは、名前のついた新しい事物の存在感が人びとの心の中で次第に強まり、確実なものになっていくことを意味する。この過程は、新しい事物の“出現局面”と総称するのがいいだろう。

 だがやがて、新しい事物の発展は加速してくる。それが存在し発展を続けていくことを疑う人はいなくなる。規模、成長率、普及率などの客観的な指標が得られる場合には、それらで測った存在の強度あるいは発展の速度とでもいうべきものは、急速かつ不断に増大していく。この過程は、新しい事物の“突破局面”と総称するのがいいだろう。

 突破が疑いようもない形で進展していくなかで、人々は新しい事物の存続・発展力について過信し熱狂するようになる。その規模や成長率、あるいは普及率がますます高まるという予想が広く抱かれるとともに、そうした予想を現実化するための試みもまた広く行われるようになる。それはしばしばバブル状態を引き起こすが、いずれはバブルが破裂して人々の熱狂には冷水が浴びせられる。過信は反省され、訂正される。しかし、そのような苦い経験を経た後で、新しい事物の存在は、もはや多少の浮き沈みとは無関係な確固たる事実として広く受け入れられ、既存の社会的諸事物の間に取り込まれ、構造的に一体化してしまう。この過程は、新しい事物の“成熟局面”と総称するのがいいだろう。

 図1では、横軸に時間がとられていることはいうまでもないが、縦軸には何がとられていると考えればよいだろうか。いかなる社会的事物にも、妥当する客観的な指標ないし変量を考えることは、まず無理だろう。しかし、上述したような出現、突破、成熟の局面を経て社会の中に定着していく新しい事物の変化過程を、何らかの量的尺度によって視覚化してみることには十分意味があると思う。そこで私が提案したいのが、人々が当該の事物に対してもっている存在感の強さとでも呼ぶことが適切なような、主観的な量である。それを客観的・一意的に測定することはできないにしても、それぞれの局面に対応する量的な変化のパターンを観念的に想定してみることは、無意味ではないだろう。図1は、そのような想定のもとに描かれていたのである。

S字波の拡張型

 それに加えて、図1のS字波は、社会変化が出現・突破・成熟という時間的にはほぼ等しい長さをもつ局面を経ながら進行していく、というイメージを表している。

 しかし、新しい事物の“出現”の始まりを、その存在が(主観的に)意識され名前が与えられた時点にとっているとすれば、実はその新しい事物自体は、それよりもかなり前にその形成が進んでいたに違いないと考えてよいだろう。そうだとすれば、新しい事物は、その“出現局面”以前に、“生成局面”とでも呼ぶことが適切な、一種の出現準備期間をもっていると想定することができるだろう。

 また、新しい事物は、それが成熟して既存の事物の体系の中に構造的に組み込まれて一体化してしまうといったところで、まったく他の事物から識別不能になったり、それ自体として消滅してしまったりするわけではないだろう。むしろ、成熟局面を経た新しい事物は、少なくともその後かなりの長い期間にわたって、多少の変質は伴いながらも、既存の事物の間にしっかりと定着して、既存の事物との間で相互作用したり、独自の機能を果たすようになるとみなしてよい場合が多いだろう。そうだとすれば、新しい事物はその“成熟局面”以降に、“定着局面”とでも呼ぶことが適切な局面に入ると想定することができるだろう。

 そのような想定を図にして示したのが、図2である。図2では、生成局面と定着局面はともに点線で示されている。そして便宜上、どちらも他の三つの局面とほぼ同じ長さの時間幅をもつものと想定されている*1。

 これは私の単なる勝手な想定にすぎないのだが、図2においては、突破局面の時間幅(横軸)は、五つの局面全体のほぼ20%を占めるように描かれている。また、存在の強度の変化幅(縦軸)は、突破局面に生ずる変化が全体のほぼ80%を占めるように描かれている。これは、社会変化における一種の“80/20の法則”の成立可能性を予想して描かれている*2。

 というわけで、S字波は、変化(進化)する社会的事物を視覚化して認識するために、波をメタファーとして心の中に形作られた(in-formed)、観念的パターンあるいはパラダイムだということができる。

S字波の派生型

 つぎに、S字波のいくつかの派生型とでもいうべきものを考えてみよう。

■反復

 まず、複数のS字波が次々に反復出現する状況を思い浮かべてみよう。それは図3のように視覚化できる。

 図3ではさらに、反復するS字波は、それぞれがほぼ一定の期間をおいて、次々に出現してくると想定されている。しかも、旧いS字波が成熟局面に達したときに、新しいS字波が出現局面を迎えると想定されている。つまり、旧いS字波の成熟局面は、新しいS字波の出現局面と重複しているのである。そのような重複局面では、人々は旧い事物の存在度と新しい事物の存在度のどちらが強いかを決めかねて、アンビバレントな心理状況に陥りそうである。つまり、一方には、新しい事物の出現は確実だと感じながらも、なかなか十分な確信を抱くまでにはいたりえない人々(改革派)がいる。他方には、旧い事物はまだまだどこまでも発展し続けると期待しながらも、本当にそうだろうかとそこはかとない疑念を抱く人々(守旧派)がいる。そして新旧両方の事物の存在度の強さをめぐって、社会の評価はしばしば真っ二つに分かれるだろう。その結果として、社会的な混乱や対立、あるいは全般的な沈滞が発生することも考えられる。ともあれ、時間の経過とともに、改革派と守旧派の間のバランスは、前者が有利となる方向に移っていく。

 これに対し、それぞれのS字波の突破局面は、いわば単純明快な局面である。新しい事物の出現を疑う気持ちはもはやどこにもなくなり、その不断の発展は当然のことだとみなされるようになる。“行け行けどんどん”などといわれるような、広範な社会的合意と自信が形成される。

■長波

 ここで、反復出現する一連のS字波について、旧いS字波の突破の最後部と、新しいS字波の出現の最後部をつなぐような下降する曲線を想定してみよう。さらに、それらの下降曲線を、各S字波の突破局面を表す上昇曲線と連結してみるならば、図4に示されているような正弦波に似た形をした一種の長波が得られる。

 別の言い方をすれば、上昇と下降を繰り返す社会変化(あるいは社会活動)の“長波”は、ほぼ等しい期間をおいて次々に出現する一連のS字波の反復過程を簡約して表現するための、観念的パターンにほかならないと解釈できるのである。あるいは、一見単純に見える長波のサイクルの背後には、S字波の反復構造が隠れているとみることができ、そうした視点を取り入れることによって、長波のパラダイムは、より豊かな意味内容というか根拠を獲得できるのである。

■連鎖

 反復出現するS字波は、同じ地平の上に次々と現れるというよりは、旧いS字波の突破を起点として、その上に新しいS字波の出現が重なっているというようにイメージすることができる場合もあるだろう。つまり、図5に示されているような、いくつかのS字波が連鎖状につながっているというイメージがそれである。

■分解と総合

 その逆に、1個のS字波をいわば大きなS字波とみなし、そのおのおのの発展局面(出現、突破、成熟)に対応して、それぞれ各1個の小さなS字波が見られるという形で、もとのS字波を分解してみることもできよう。たとえば、“産業革命”と総称される社会変化が、1個の大きなS字波として認識できるのと同時に、“第一次”“第二次”“第三次”の産業革命と呼ぶことができる、いくつかの小さなS字波の連鎖としても認識できるような事例を想像してみるとよい。同様に、“近代化”と総称される大きな社会変化のS字波は、“軍事化”“産業化”“情報化”と呼ばれる個別的な社会変化の波の連鎖に分解できるだろう。逆に、最初は互いに独立した別個のS字波と見なされていた社会変化過程、たとえば、“産業化”と“情報化”は、別の観点からすれば、“近代化”と総称することが適切な大きな社会変化過程のそれぞれ一部にすぎないというように、総合的に解釈することもできよう。このようなイメージを視覚化したのが、図6である。

 ここまでくると、最初は比較的単純に思われたS字波形の社会変化のプロセスは、にわかに複雑な様相や構造をもっているもののように見えてくる。たとえば、図6に書き込まれた2本の縦の点線に注目してほしい。それぞれの点線は、いくつかのS字波と交差している。左の点線は、大S字波の突破局面と交差しているが、同時に第二の小S字波の突破局面とも交差している。そこだけに注目する限り、縦の点線に対応する時代は、あらゆる意味で突破の花盛りといいたくなるような単純明快な時代であるようにみえる*3。しかし、同じ縦線は、第一の小S字波の定着局面とも交差している。つまり、第一の小S字波に対応する社会変化過程も、まだ終わってしまったわけではないのである。さらに詳しく見れば、この縦線は、第三の小S字波の生成局面とも交差しているはずである。つまり、この時代には、まだそれとは意識されていないにせよ、第三の小S字波に対応する新しい社会的事物の生成も、ひっそりと始まっているのである。そのことは、後になって、第三の小S字波が出現から突破局面に入ったころに過去を振り返ってみたとき、あらためて自覚されることになるだろう。

 他方、右の点線は、大S字波および第二の小S字波の成熟局面と交差している。その意味では、この時代は、なによりも成熟の時代と呼ぶことがふさわしい時代である。しかし、この縦線は同時に、第三の小S字波の出現局面とも交差している。つまり、全体としては成熟を基調とする時代であるとはいえ、そこにも新しい事物の出現がまぎれもなく起こっているのである。さらにいえば、この縦線は、第一の小S字波の延長線とも交差しているはずである。つまり、この時代には、もうほとんど忘れ去られてしまっているかもしれないにせよ、第一の小S字波に対応して生じていた社会的事物は、おそらくはかなりの変質をとげながらではあれ、既存の社会システムの不可欠な構成要素としてしっかりと定着しているのである。

S字波のフラクタル構造

 以上に概観してきたようなS字波のパラダイムは、さらに拡張できるに違いない。ある社会変化は、より大きな社会変化の一部であるばかりか、さらにより大きな社会変化の一部をもなしている。それはまた、似たようなレベルの社会変化のS字波と連鎖をなしている。さらに、それを小さなS字波の連鎖に分解できるばかりか、それらの小S字波自体、より小さなS字波に分解していける、等々。そして、ある社会変化の特定の局面、たとえば突破局面は、無数と言いたいほど多くの他の社会変化の出現局面や突破局面、あるいは成熟局面等々と同時並行している。

 ここに浮かび上がってくるのは、社会変化のフラクタル構造ともいうべきイメージである。つまり、S字波の反復や連鎖、総合や分解は、原理的にはどこまでも可能なはずであり、その限界はわれわれの精神自身のもっている分解能の限界であって、事物自身のそれではない、というイメージがそれである。言い換えれば、全体としての社会変化は、小さな縄が大きな縄の一部となり、それがさらにより大きな縄の一部となりつつ互いに複雑極まる形でつながり合ってもいる、“あざなえる縄”の形をなしている。その中から、個別の社会的事物や事象を取り出したり、それらが変化していく過程、あるいは他の事物や事象に交代したり、統合・分解されたりしていく過程を取り出したり跡づけたりすることは、高い自由度のなかで、認識・行為の主体が自らの責任のもとに選択・決定しなくてはならない思考の営みなのである。

*1 しかし、定着局面はさらに長期間にわたって続くとみてよい場合も多いだろう。たとえば、『文明の進化と情報化』の中で近代化の出現局面にあたるとした“軍事化”(あるいは“国家化”と呼ぶこともできる)のS字波の出現・突破・成熟局面は、“絶対王制”、“立憲君主制”、“民主共和制”に対応する小S字波に分解できる。しかし、近代主権国家はそれで終焉してしまうわけではなく、19世紀後半以降は、“帝国主義”の時代とか、“持てる国対持たざる国”の戦いの時代と呼ばれるような、戦争と国家の変質・定着の局面が続いている。さらに20世紀後半以降は、軍事的に圧倒的に強力な米国と、近代主権国家としての自己形成自体に難渋している“ならず者国家”や国家の体すらなさない“テロリスト・ネットワーク”が対峙するネグリ/ハートらのいう“帝国”の時代への移行が始まったようにみえる。そのなかで、近代主権国家/近代国民国家はさらに変質していくだろうが、主権国家という存在自体は、まだまだかなりの長期間にわたって残り続けると思われる。

*2 社会学者ヴィルフレード・パレートが、菜園でとれたえんどう豆とそのさやとの間に成立する関係として最初に発見したといわれる“80/20の法則”(豆の80%は、20%のさやに入っている)は、その後生物界だけでなく、社会にも広く見いだされる存在の不均等性の法則として知られるようになった(バラバシ[2002]『新ネットワーク思考』NHK出版、第6章)。さらに、英文中の単語の出現頻度や、都市の人口規模と総人口との間などにみられる“Zipfの法則”を通じて、“80/20の法則”は、自然界では物質の相転移の近傍で出現することが多いといわれる“ベキ法則”とも深く関係していることが発見された。ここでは、ベキ法則が、社会の変化過程にも妥当している可能性を念頭におきながら、図2のような変化の形を考えているのである。

*3 たとえば、経済学者の間に多い近代化と産業化を同一視する視点は、このような時代の経験にもとづいているとみることができそうだ。

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