登壇者:山口真一(国際大学GLOCOM准教授・主幹研究員)
    田中辰雄(慶應義塾大学経済学部 教授/国際大学GLOCOM主幹研究員)
    鳥海不二夫(東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻教授)
    古田大輔(ジャーナリスト/メディアコラボ代表)
モデレーター:渡辺智暁(国際大学GLOCOM 教授・主幹研究員)
日 時 :2022年7月12日(火)18:00~20:00(Zoom開催)

概要

SNS上の諸課題を事例とデータから紐解き、社会的対処方法を提示する『ソーシャルメディア解体全書』(山口真一・勁草書房)と、インターネットによる社会の分断に対する具体的な処方箋を示す『ネット分断への処方箋』(田中辰雄・勁草書房)の同時出版を記念し、基調講演および有識者と著者らによるパネルディスカッションを行った。パネルディスカッションでは事前にパネリストに回答いただいたSNSをめぐる論点を起点に、メディア情報リテラシーやファクトチェック、法規制の在り方についての議論を行った。

基調講演1「データが示すSNSの実態と求められる社会的対処」(山口真一氏)

ソーシャルメディアが世界中で普及して誰もが自由に世界に発信可能になる人類総メディア時代が到来した。そうしたなかでソーシャルメディアによる情報の自由な流通が経済・社会システムを大きく変えつつある。2018年にGoogleと行った研究でネット上のクチコミの経済効果を実証研究したところ、年間の人々の消費金額が1.5兆円も押し上がっているという結果が得られた。世界も経済も大きくインターネット、ソーシャルメディアによって変わってきている。ポジティブな面を持っているソーシャルメディアだが、フェイクニュース、誹謗中傷、デジタル暴力といったものが多く発生してしまっていて、最近だとネガティブな面が非常に注目されるようになってきている。
本書の特徴は、ひとつのイシューについて論じているのではなくてソーシャルメディアの諸課題を俯瞰的に論じ、社会的な対処を大きい目線で論じているということだ。今日はかいつまんでご紹介できればと思う。
まず、ネット炎上という話をさせていただく。シエンプレデジタルクライシス総合研究所の研究によると、2020年の炎上発生件数は1,415件。1日平均すると4件ということで今日もどこかで誰かが燃えているというのがネット炎上の現状ということがいえる。さらに、これがコロナ禍において増えているということも指摘されており、2021年にはこの件数が1,700件を超えている。炎上1件についてツイッター上でネガティブな書き込みをしている人を推計し、人数の中央値を取るとネットユーザーの0.00025%、40万人に1人しか書き込んでいないということがわかった。とはいえ、ネットユーザー全体が1億人いるので、だいたいネット炎上1件あたりに対して250人ぐらいがネガティブな発言をしていると考えていただければと思う。

そこからさらに炎上1件に対して書いている人、書き込みをしている人でもほとんどの人が1~3回しか書かない。しかしながら中には炎上1件に対して50回以上書き込みした超ヘビーユーザーもいる。例えばサイエンスライターの片瀬久美子さんという方がSNS上で誹謗中傷されて裁判した事例では数百のアカウントをつくって攻撃した男性が訴えられている。ごく一部の意見、さらにごく少数の意見が大量に発信されているという実態がある。こういう炎上に一体誰が書き込んでいるのか。それを数学的なモデルで分析したのだが、その結果、男性である、年収が高い、主任・係長以上の特性の人が炎上に参加しやすい傾向にあるということが分かってきた。中身の分析をすると、炎上参加者は協調性が低い。さらに世の中は根本的に間違っている、自分は周りの人に理解されていない、相手の意見が間違っているなら、どこまでも主張して相手を言い負かしたい、人から怖いと言われることがあるといった人が相対的に多い。社会や他人に対して不満を抱えていて攻撃的な人という内面も見えてくる。
もうひとつ、本書ではネット上の意見の偏りも取り上げている。ネット上の意見は、能動的な発信しかない言論空間のため、強い極端な意見を持っている人のほうが大量に発信するということが起こってしまう。憲法改正というワンイシューについて人々の意見分布を7段階で調査すると、極端な意見の人は少なくて中庸な意見の人が多い。しかしソーシャルメディア上に投稿した回数を分析した結果、非常に賛成である人が最も多くなり、次に多かったのが絶対に反対であるという意見の人だった。この人たちの投稿を足し合わせると、ソーシャルメディア上の憲法改正の話題は46%を占めるという結果になる。社会に14%しかいない強い意見を持った人の意見、投稿がソーシャルメディア上では46%、約半分を占めているということがいえるわけだ。しかもこういったことはみんなが注目するイシュー、問題ほどこのバイアスが大きくなるということが分かっている。
そして、フェイクニュースというテーマも本書で取り上げた。実際のフェイクニュース9つの事例を使った調査では、1つ以上に接触したことのある人が33.2%、誤情報と気付いていない人が接触した人の77.5%に達した。しかもフェイクニュースに接触した人のうち43%の人がそれを誤情報と気付かずに拡散してしまっていた。こういうフェイクニュースは人々の意見を変えるのか、社会的な影響の部分をご紹介したい。実験では2つのフェイクニュースを取り上げた。安倍元首相、蓮舫議員に関するフェイクニュースを使って実験したところ、安倍元首相、蓮舫議員共に支持しないほうに流れた人が多かった。さらに、弱い指示層の人ほどフェイクニュースに拠って支持を下げやすい。こういった弱い支持の人は社会においては非常に人数が多い支持層なので、選挙にもかなり影響を与えているのではないかということが見えてくる。
こういった実態を明らかにしたうえで、どういう社会的な対策が考えられるかを検討している。例えば、ネットの実名制を導入したらどうかという議論があるが、調査研究からはあまり効果はないということが分かっている。韓国のインターネット実名制は導入されたが違憲と判断されて廃止されている。調査をすると、法的にフェイクニュース、誹謗中傷は規制すべきだと答える人は75%いるが、Slippery Slopeという問題があって、20年後、30年後に解釈が拡大されて言論弾圧とか政府に批判的な人を処刑するということに使われるという可能性を紹介している。マレーシアでは偽ニュース対策法というのが存在していたが、当時の政権が法律に基づいて自分の敵である人を調査対象とするという強権的な手段として活用していた。ロシアでは偽ニュース禁止法というものがあり、ウクライナ侵攻によって強化されている。このように、政府に否定的なネガティブな報道をかなり弾圧しているということが世界中で起こっている。なので、法規制というものはかなりリスクもはらむということをご紹介している。
第7章では、このような社会的対処について政府に限らず様々な主体がどういうことができるかということを論じている。

基調講演2「ネット分断への処方箋」(田中辰雄氏)

ネットへの悲観論が圧倒的だ。今から20年前ぐらいまでは楽観論があった。ネットは世の中を良くする。時間と空間を超えてコミュニケーションすれば知恵が交換され、理解が深まると言われていた。しかし、2000年頃から状況が暗転する。ネットにおいては炎上が起こる、基本的に知恵の交換、理解よりは両極端に分かれて罵り合うだけだという悲観論が広まった。
これはなぜかということを考えてみたい。議論には2つのタイプがある。ひとつは相手を倒すための議論である。法廷闘争、政治討論、ディベートは勝つことが目的なので自分の弱みは出さず、相手の弱点に焦点を当てて徹底的に攻撃する。寛容さは不要だ。こういう議論は殺伐としているようにみえるが、ルールが必要で、ジャッジがいて勝敗を判定する。しかしご承知の通りネット上では判定者がいない。相手が黙れば、そこから立ち去れば勝ちである。そうなるとあらゆる非生産的方法が動員される。相手の揚げ足を取る、枝葉末節な議論をするなど議論がどんどん激化する。相手が呆れて去っていけば勝利するという形になりやすい。もう一方は相互理解のための議論である。インターネットで当初期待されたのはこちらで、互いに理解できれば成功、理解できなければ失敗、議論において勝ち負けはない。この2つの議論は両立しない。ネットでは相手を倒すための議論が圧倒的で相互理解のための議論が消えているというのが現状だ。ネット上では両極端の人だけが目立つということが続いている。
なぜネットでは相手を倒す議論ばかりになるのか。これが私の本書の中心になる。リアルではない極端な議論が横行するのは、情報発信力が強すぎるからである。つまり、ネットでは誰に対しても議論を開始することができ、これをやめてもらう方法がない。ブロックしてもアカウントを変えて次々に現れて、誰の耳元にでも自分の主張を無限に囁き続けることができる。リアルの講演会で立ち上がって極端な反論を述べるということはない。警備を呼んで退出させるまで延々持論を述べる人がいれば中止せざるを得ない。討論番組で延々と異論を述べる人が次々と現れたら番組は成立しない。このあり得ないことが普通に起きているのがネットだ。いかにネットにおける個人の情報発信が強いかが分かる。
こういう状態がいかに異常かということをイギリスのハイドパークにあるスピーカーズコーナーという例で紹介したい。公園に箱を持って立つと誰でも演説ができる、世論形成の原型だといわれている。Aの人が多ければ支持されていることがわかる。これには大前提があって、BはAと離れたところにあって独自に演説を始めて人が集まらなかったらすごすごと帰る。BがAの論壇に乗っかって好きなことを言えるのであればどうなるか、これは成立しない。当然、聴衆はBのいうことを聞きたくないからつまみ出そうとする。つまみ出せなかったらAはこの場所から去るしかない。このことが平気で起きているのがネットだ。数千人とか面白い話、有意義な議論をする努力をするが、Bが来てやすやすと聴衆を獲得し、皆嫌気がさす。こんな理不尽なことがまかり通っていく。
なぜこんなにネットでの情報発信が強いのか。これは、今日のネットの母体となったインターネット特性にある。インターネットは非常に個人の情報発信を強めてきた。なぜかというと、インターネットは学術ネットに始まるからだ。1960年代から70年代に理科系の研究者のコンピュータ同士をつなげて計算したらコミュニケーションがすごく面白いと気付いた。研究者同士の個人の発信力が最強になって、ネットは議論の場になった。当時の参加者は基本的に理科系の大学院生で、議論の仕方に作法があった。同じことを繰り返す、人格を攻撃するということがない。匿名であったとしても実際にはどこの大学の何の専攻だということが分かっていたので、あまり変なことをすると最終的に研究室のボスが出てきてやめろと押さえられる。そういう状態だった。しかし、ネットが世界全体に広がって、この条件は崩れる。そうするといろいろな人が現れるのは避けがたい。非常に数は少ないが、自分の言いたいことを機械のように疲れを知らず言い続ける人が残る。それが今日のネットの世界を分断して、寛容な人は生き残らない。どちらかというと不寛容な人が生き残るような仕組みになってしまっている。
対策として、情報発信力を抑制すればいい。前提条件としてインターネット全体を変える必要はない、強い情報発信力があり、世界に発信できるという良い面はある。言論の自由は最大限守る。どんな少数派の意見でも将来的に多数派になり得る。インターネット上で世論形成をしているのはTwitter、ブログ、掲示板、誰もが読めるものだ。既存のSNSを変えてもいいが、特化したSNSをつくる、本書で「フォーラム」というものだ。フォーラムとは受信と発信を非対称にしてメンバーシップ性をとったグループだ。主宰者が友人を招待し、友人が友人を招待する。書き込みはフォーラム参加者のみ。読むのは自由。周りにフォロワーがいて自由に拡散する。発信力もありながらなおかつ制限できる。読んだ人が相手を除名することもできる。書き込みは緩い知り合いなので、極端に意見の離れた人はおらず、相互理解型の議論が維持できる。誰でも読め、RT可能なので発信力がある。これは昔の先行例があって、かつてのパソコン通信は似た感じでPC-VANやNifty Serveには管理者がいる部屋があった。この案についてアンケート調査をやったところ、メンバーシップ性に賛成と答える人が7割を超えていて、メンバーシップ制が広まりつつある。

フォーラムは中庸な議論を復活させ相互理解の議論を復活させることを目指しているが、炎上やフェイクニュース、ヘイトスピーチの対策としても一定の効果がある。炎上に関して言うと、プロテクションで保護地帯を作る。フォーラムの中にいると、書き込めるのはメンバーだけなので攻撃的な書き込みを見なくて済む。そして、流言は智者に止まる。フォーラムを作ると自分の信用できる智者がフェイクニュースを止めるという対策が取れるのではないかと思う。分断を防いで中庸な議論を回復するためには個人の情報発信力を抑える必要がある。そのための方策をいくつか考えることができる、という話である。

パネルディスカッション「SNSの未来を考える」

――誹謗中傷やフェイクニュースなどの問題について、サービス事業者はもっと積極的な対策を行っていくべきか。

鳥海: 必ずしもフェイクニュースの誹謗中傷を止めるという意味ではなく、サービス事業者自身がより良いサービスを実現するために対策はするべきだと思う。フェイクニュース、誹謗中傷をメインに行うサービスを作るのは一つの対策だと思う。
山口: 法律的なアプローチは、かなり危険性をはらんでいる。表現の自由とのバランスは相当難しい面も多い。健全な情報環境という意味だと、事業者ができることがあると思うし、事業者にとってもプラスになると思っている。例えば、Rethink機能という再考を促す機能がある。英語版のTwitterでは侮辱的なリプライを投稿しようとするときにAIが自動的に分析してアラートを出す。それを実装した結果、表示した人の34%が投稿を削除するか編集するかした。これは表現の自由を侵害せずに新しい気付きを与えるという方式を取っていて、AIでできることはまだあると思う。ただ、プラットフォーム事業者は言論をコントロールする力も持っているし、同時に事業者が何でもかんでもコントロールしたら言論統制に繋がってしまう。事業者がどういう基準で削除しているのかという透明性の確保、アカウンタビリティというものも必ず求められてくるのではないかと思う。
古田: 「もっと積極的に」という言葉がつくとかなり微妙で、社会的な力を持つ強大なプラットフォームにどこまでその権限を持たせていいのかという話になる。その点はグレーゾーンなので、かなり丁寧に議論を行う必要がある。今朝、日経にフィナンシャルタイムズに載っていたTikTokに対する懸念が書かれていた論説が翻訳されていた。TikTokへの重大な懸念としてアルゴリズムによるコンテンツモデレーションが相当不透明だし、かなり極端であると指摘していた。コンテンツモデレーションをもっと積極的にという言葉というのは危険性をはらむ問題なので、私は敢えてどちらとも言えないに〇をした。

――法律的にフェイクニュースや誹謗中傷をもっと厳しく取り締まるべきか。

田中: 現状でもやり過ぎではないかと思っている。アメリカではフェイクニュースとされているものを削ったりバンしたりする。一定のいい面はあったが明らかにフェイクという判定は難しい。コ・バイアスがある。典型的だったのは大統領選の不正だが、これでバンしたことで、FacebookやTwitterは民主党の味方だと思って、ソーシャルメディアを信じなくなる。別のところに行こうということが起きて、分断が強まった。法律がフェイクや誹謗中傷と決めようとすると言論の自由を侵すリスクが高いので、やらないほうがいいと思う。
古田: 微妙な話だと思う。法律的に厳しく取り締まったケースもあればそうでないケースもあるし、グレーゾーンをどこで定義づけていくのかというのが大変難しい。木村花さんの事件をきっかけとして誹謗中傷に対してより厳しく分かるように法律は進んでおり、その方向性に行かざるを得ないという現状もある。ただ、どこまで厳しくするのかということを考えたときに、そう思うとは言いにくいのではないか。
山口: 法律は最後の選択肢だと思う。プロバイダ責任制限法は改正されたし侮辱罪は厳罰化された。ここに至って規制をさらに強くするのは、私は反対だ。私の本の中でSlippery Slopeという懸念を紹介している。法律施行直後は正しく運用されても10年、20年後、強い政権によって悪用されるということが十分あり得る。我々はそうなりたいのかということを今一度考える必要があるし、他の対策で何ができるかを考えていくことが大事だ。

――メディア情報リテラシー教育を中学や高校の必修科目に含めた方が良いと思うか。

鳥海: 現代の社会はデジタル空間とリアルな空間が密接に関係しており、デジタル空間で人生の半分を過ごしているにもかかわらず、そちらに関しての教育は他の教育に比べて十分ではないのは間違いない。ここ20年ぐらいでようやく出てきたような話で無理なのはわかるのだが、我々が生きていく社会の世界なのだからちゃんとやった方が良いと思う。
古田:これは絶対にやるべきだと思う。皆がネットに接していていろいろな情報を得ている。例えば今回の選挙で1議席を取った参政党はTikTokとかInstagramをすごく使っており、それを10代、20代の人たちがよく見ている。そういう世代が生まれてきているなかで、どういう情報がそこで広まっているのかということがきちんと研究されていたり、それが教育されているかというとまだまだ足りていないと言わざるを得ない。グローバルファクトで非常に人気になったセッションはティーンズファクトチェッカーという企画で、10代の子を選抜して鍛えてファクトチェッカーにするというものだった。そういった活動を10代のうちからやっておくべきだし、小学生から教育をやっておくべきだと思う。
渡辺: メディアリテラシー教育をやるとしてどのような主体がやるべきなのか。教育は政府が大枠を決めてやっていくものだから、ある種の政府の失敗に影響を受けやすい。法律も教育も1回決めてしまったものを覆すのは大変になるのではないか。
田中: メディア教育を学校に入れるということに昔は大きな反発があった。メディアというのは偏りもあるし、メディアは権力を批判するのが役割だ。以前、新聞の見方をなぜ文科省が決めるのかと言われ、様々な形で制約が掛かったこともあった。ネットメディアの問題は深刻だからなのか、時代は変わったと感じる。教えられることの中身を決めていけばある程度中立性ができると思う。
山口: 情報が爆発している現代では情報メディアリテラシーというのは国語とか数学、社会と同じレベルではないかと思っている。昨年度、教育啓発教材を作らせていただき、その資料を使った講座を2回やって前後の理解度を見たが、すごくその効果はあった。だが、効果検証も長期にやる必要があるし、繰り返し啓発をやることも求められている。事業者が行う啓発も価値があると思うが、どうしても面での広がりでは弱く、総務省がやったとしても今一歩、面での広がりに行ききれない。だからこそ、教育という必修のなかで浸透させていくことは今、一番求められていることなのではないかと考えている。
古田: 既存の伝統的なメディアの方がなぜこれに後ろ向きかというと、メディアイコール自分たちであるという意識が非常に強い部分があるのが大きい。現実的に小学生、中学生のメディアの世界はインターネットが主になっていたとしても、メディアに関する教育をして、我々がチェックを受けるのは心外だという非常に強いプライドがある。メディアリテラシー教育をして、その子たちがより良い形でメディアを、吟味するような能力を身に付けるのと、教育を受けずにマスコミは嘘を流すに違いないと植え付けられて育っていくのとでは、絶対に前者の方がましだと思う。メディア情報リテラシーを普及させていかないからそういうものが入り込む隙を与えているのではないかと思う。

渡辺: 実際にこれを必修科目にするとして、学校の先生たちにそれができるだろうか。
古田: 現場でメディアリテラシー教育をすると必ず、メディアの発信を全て疑えばいいのですねといわれる。そういう表層的な、情報不信を生むような形でのメディアリテラシー教育は逆方向に働く可能性もあり得る。では、どうしたらいいかということになるが、既にいろいろなメディア教育を実践されている方はそういう矛盾とも接してこられている。その方法論を十分に生かして教材を作り、その教材を授業に活かしていくというプランまで方法論化、マニュアル化していくことが重要だ。そうすることによって、どこの学校であってもある程度授業のクオリティが担保される状況を作っていかないといけない。
山口: この問題はいろいろなところで聞く。教えていく側のリテラシーが高いとは限らない。そういう授業が今までなかったから当然なのだが、やはり教師自身に対する訓練も欠かせない。今回、私たちが総務省と一緒に作った教材では教師向けの教材がある。教師向けも含めた教材をしっかりと作って、広めていくというのが今求められているのではないか。
鳥海: メディア情報リテラシー教育を行う上で一番重要なのは、教育を受けて実践することによって、自分はそのほうが良いのだときちんと理解できることだ。だが、私が今までやってきたリテラシー教育では、やったほうがいいのかもしれないが、そんなことをやっていられないということが結構多い。利得、効用の最大化と考えたときにリテラシーが低くてもいいということになりかねない。メディア情報リテラシー教育というのは、何をしなければいけないと教える前に、教育が我々にそもそも必要であるということを教えなければいけない、そのための方法論が議論されてはいないのではないかと思う。

渡辺: Q&Aに、変な発言をしたことで刑法上の罪になることもあると教えるのがいいのではないかという意見がある。コストベネフィットの考え方で、自分で律するようにしようということであれば、インセンティブが働きやすいのではないか。
山口: 私たちが作った教材にも、投稿して侮辱罪とか刑事罰でなくても民事で数百万円の損害賠償が起こっているという事例を公開している。自分が気軽にやった誹謗中傷は相手が傷つくだけではなく自分にも返ってくることがある。リテラシーの啓発には盛り込まれていることが多いと思うが、そういうマイナス面を皆が認識する必要がある。鳥海先生が大変深く関わる情報的健康の話になるが、あまりに偏り過ぎた情報をとることは社会にも、本人にもマイナスになる。極端になり過ぎると社会を分断するだけなので民主主義にはマイナスだ。しかし、人々が多様な情報に接する、フェイクニュースを避けなければと思うインセンティブはどこにあるのかという問題があって、個人がそれを実感するのは非常に困難だ。ついこういうことに気を付けましょうというが、そもそも気を付けると何が得なのかということはもっと議論したいし、そこを資料の最初に持ってくるべきなのだろうと思う。
古田: 質が高い情報を仕入れていくようにしないと、ねずみ講にひっかかるとか、効きもしない医薬品に騙されるとか、より質の低い情報に騙される。私はなぜリテラシーを身に付けなければいけないかという時に、より質の高い情報をどんどん仕入れることによって、自分の判断力が鍛えられ、自分の人生に直結してプラスになる、金銭的なプラスになると話している。

――オンラインニュースのコメント欄は閉鎖すべきか。

鳥海: 基本的にはそう思わない。あるニュースを見たときに多様な考えに触れる可能性があるという意味では有用なものだと思う。おそらく閉鎖すると、まず、2ちゃんねるのような他のところで、誹謗中傷が起きるだろう。ヤフーニュースのコメント欄というのは見に行かなければ見えないものだと考えている。プッシュされるものとは違う扱いだといううえで、限度を超えたものに関してはヤフーがやっているような対処を行うべきであると思う。
古田: コメント欄は初期インターネットの理想を体現しているのだと思う。ただし、実際にやってみたらインターネットの悪いところが集まる場所になってしまったという今の状況がある。コメント欄を実際に閉鎖したメディアはいっぱいあるし、続けているところはそれなりに努力をしている。コメントに関するコンテンツモデレーションをかなり強化している流れがある。ヤフーもそういうことをやっているが不十分であるという指摘は成り立ち得るわけだが、インターネット初期の時代からの理想に関してある程度開いたコメント欄をやっているところを全否定するのは難しいだろう。ただ、現状で弊害がとても大きいため、私は「そう思わない」に○をつけられるだけの原則論や理想論に立てないと感じる。
山口: 私はニュースのコメント欄というのはネットの言論空間を体現しているという意味もあるのではないかと思う。現状、最大手であるヤフーニュースでは建設的順位付けモデルというコメント欄の順位付けを操作している。それが導入されたあとはロジカルなコメントが上に来るようになって、私もそういう見方があるのかと思うことが結構多い。ただ一方で、ミスインフォメーションの問題とか、グレーゾーンのものは残っているのでそれで傷付く人も出ているというのは事実である。ひとつ懸念しているのは一方向に偏ることが多いことだ。両論併記アルゴリズムでモデレーションすると、コメント欄の意義を高めるのではないか。あとは、悪質なユーザーへの対処をもっと厳しくするのがとても大事だと思う。

――フェイクニュース対策としては、ファクトチェック組織の拡充が最も効果的か。

渡辺: これに触れていただきつつ、SNSの未来についてひとこといただきたい。
古田: 我々がSNSを手放すことはできない。個人はできるかもしれないが社会全体で一斉にSNSをやめることはあり得ない。ではSNSの良い面を伸ばし、悪い面のどう穴を埋めていくのかという作業をしていかなければならないわけだが、唯一これを使えばすべてが解決するという魔法の杖は存在しないので、いろいろな手を打たなければならない。そのひとつがメディア情報リテラシーの教育であるし、ファクトチェックになる。なぜファクトチェックが最も効果的だといえるかという点で言うと、日本で最も足りていないことのひとつであるからだ。世界ではインターナショナルファクトチェッキングネットワーク(IFCN)がファクトチェックに関する世界的なルールや流れを作っているが、認証を受けたファクトチェック団体が日本には存在しない。本日の発表の中でもファクトチェックの実例が紹介されていたが、世界で見ると日本のコンテンツは非常に少ない。ファクトチェックの実例がファクトチェックの機関から出てこないと、この問題に取り組むための基礎資料すら集めることができない。だからこそファクトチェックを拡充していくことが様々な研究のためにも、メディア教材にも生きてくるのではないかと思う。
鳥海: ファクトチェックは是非やるべきであるし、これは大前提だと思っている。だが、そのうえで、フェイクニュース対策としてこれが一番効果的とはいえないだろうと思う。古田さんはIFCNの認証を受けた団体は日本にはないとおっしゃっていたが、日本がフェイクニュース大国だということはないだろう。ファクトチェックが存在することはもちろん重要だがそれをどう活用していくのか、それこそが重要になっていくのではないか。そして、SNSの未来を考えるうえで、私自身は少し広く、デジタル空間やネットの情報空間全体を考えていきたい。そういったものの未来を考えるうえで最初に押さえなければならないのはホモサピエンスにとっては早すぎる技術だったということだ。我々は自身を人類だと思っているかもしれないが、ホモサピエンスとして動いている場面があまりにも多いのではないか。社会全体で見てみると、ほとんどの場合、二重過程理論でいうシステム1で動いている。我々はそれを前提に社会システムを組み立てていかなければいけない。そのためには情報リテラシーを高めるのが重要だ。AIの技術はかなり発展してきているので、AIによる支援を行いながら、より良い空間を作り上げることを考えなければいけないのではないか。
山口: 特効薬はないと思う。私は交通事故と同じだと思っているが、交通事故も100%なくなるということはない。SNSも皆が持って皆が誰にでもつぶやけるようになったら事故が多発する。交通事故は今、日本では減っている。SNSも同じように解決はできないけど、改善はできる。そのためにステークホルダが一歩一歩その改善に向かって取り組みを進めることが最も重要なのではないかと思う。政府が取り組む話、自治体が条例でやっているというところも結構出てきている。さらに、プラットフォーム事業者や業界団体、教育、メディアがフェイクニュースにどう立ち向かっていくかとか、我々、個人個人が偏った情報接取をしないとかフェイクニュースに騙されないということに意識を高めるということ、そして、他者を尊重するという道徳心を身に付けることが大事ではないか。そのうえでとても大切だと思うのが、これは始まりに過ぎないということだ。今はいろいろな技術がどんどん進歩している。技術が発展していけば、人々のネットワークはより広くより濃くなり、コミュニケーションも次元が変わっていく。早すぎたSNSですら、おそらくこれからの情報社会の流れでいうと始まりの技術に過ぎないと思う。これまで人間はいろいろな問題を改善してきたのだから、同じようにこの問題も改善の道をきっと見つけられると思っている。対策を一歩一歩進めていくことが、SNSだけではなくて、今後の情報社会、デジタル空間の未来に向けてとても大切だと思うし、それはある意味、人類の進化なのではないかと思っている。
田中: 私は、流言は智者に止まると考えている。インターネットは1960年位から始まったが、情報化の流れは200年か300年続くだろう。初期時点は様々な問題点が噴出する。近代化は16世紀から始まって最初の300年は戦争などひどいものだった。これを解決するための時間が必ず掛かる。ソーシャルメディアについては炎上がほんの少数であるということがコモンセンスになりつつある。少しずつ状況は良くなって、20年、30年ほどすると問題は解決していくと思う。
渡辺: ありがとうございました。壮大かつオプティミスティックな話で心強く思った。これでパネルディスカッションを終了したい。

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